私は、昨年十一月、慶応病院で肺の手術をうけた。経過はたいへん良く、三月のはじめに退院した。長年にわたる病気が文字通り、全快したのだが、これから先、やってゆかねばならぬ仕事のことを思うと、手放しで喜んでもいられない。以下は、退院前後の私の日記からの抜萃である。日記といっても、ベッドの中で手帖に記したほんの心覚え、箇条書きのメモにすぎない。そこで、註をつけることにした。註の方が長くなりそうだがおゆるしねがいたい。
二月二十五日(木)晴
血沈十一ミリ。
朝、禁食。両肺機能検査。
昼、延食、左右別肺機能検査。
報知新聞に原稿(一枚半)渡す。
村松英子嬢見ゆ
——退院検査の日である。検査は四つあって、その二つ(気管支鏡、造影)は前週に済んだ。この日は、最後の検査で、これにパスすれば、もういつ退院してもよろしいという許可をうけたことになる。
検査はどれも、あまり楽なものではない。咽喉を麻酔して、気管にいろいろな管を挿したり、薬を流しこんだりするから、検査前には、食事をとることができない。
「禁食」は食事抜き、「延食」は検査がすむまで食事を延期することだが、検査が終ってもまだ麻酔が残っているから、なかなかすぐ喰べる気にはならない。罐詰の果物ぐらいが関の山である。気分が悪くなったり、熱を出したりする人もあるが、私は検査には強い方で、この日も、無事に早く済んだ。気管が太いので得をしているらしい。
手術前の検査で覚えたことだが、検査をうけるこつがある。緊張感を解いて、楽な気分になって、身体中の筋肉の力を抜いてしまうのだ。手術台へ寝かされ、頭を台の外へ垂らした窮屈な姿勢で、眼の前へ器械をつき出されると、どうしても、緊張して、肩や胸のあたりに無用な力を入れてしまう。それで、ますます管が入れにくくなるのだ。筋肉を弛緩《しかん》させること。これはスタニスラフスキー・システムの応用である。
報知の原稿はテレビについての感想であった。
お見舞いの村松英子さんは文学座の研究生。評論家村松剛氏の妹さんである。近く結婚される由、いきいきと幸福そうに見えた。
三月二日(水)晴
朝、虎の門病院に三島由紀夫氏を見舞う。
退院準備。会計。前夜祭。
——前日の夕刊に、映画出演中の三島氏が西銀座デパートにロケ中、足を滑らして頭部を強打し、入院した旨の記事が出ていたので、朝の散歩の時間にお見舞いに行った。
虎の門病院は一昨年建ったばかりだから、設計、設備その他、すべて最新式で、気持のよい病院であった。
ちょうど、回診中だったので、廊下のソファで、奥さんからいろいろ様子を伺った。まず安心すべき状態だが、当分は絶対安静の由。エスカレーターの昇り口で、倒れる場面を撮影中の事故だそうだが、倒れる演技は難かしい。段取りは易しそうに見えても、なかなかそうは行かない場合が多いものだ。深夜のロケで、疲労も重なっていたらしい。
三島氏は、持前の真面目さと熱心さで、難かしい演技に直進し、災難を蒙ったが、これは、氏が演技に不馴れなために起ったこととばかりは言えないだろう。こういう種類の災難は、まったく誰にも防ぎようのないものだ。現に歌舞伎座では、梅幸丈が、扱い馴れた王朝風の衣裳を着て階段を降りるはずみに、足を滑らし、捻挫、休演中である。
弟さんが見えたので、一緒に病室に入ると、三島氏はセーターを着、頭に繃帯を巻いて寝ていた。元気だった。映画のために、もみあげを長くのばしているので、ふだんよりも精悍な感じがした。ちょっと話して、早々に辞去したが、帰ればたちまち自分も入院患者と化するのは、情けない仕儀であった。
しかしそれも、この一日で、翌日はいよいよ退院である。入院は十一月五日だったから、ほぼ四カ月入っていたことになる。ずいぶん長いような気もしていたが、いよいよ退院となると、案外短かったような気がするから妙である。
私のいたのは二人部屋で、同室のT氏は慶応の後輩なので、いろいろ共通の話題があった。T氏はいま母校の法律の先生である。どちらが先に退院するか、大いにせり合ったが、むろん病気はレースではないから、思うようには運ばない。結局、仲よく同じ日に退院ということに決った。
「前夜祭」とはおおげさだが、この日の夜食は、中華料理や鰻をおごって、ともどもに明日の退院を祝った。
病院は、完全看護の建前になっており、食事にもいろいろ工夫を凝らしている形跡はあるが、病院のメニューが、常に患者の食欲をそそるとは限らない。格別、ぜいたくを言うのではなく、ふだん喰べつけた味のものを喰べたいと思うことが、病人にはずいぶんある。喰べもの一つにしてもそうだから、入院患者の家族の苦労は、他人事のようだが、大変なものだろうと思う。
T氏は、退院早々、療養をかねて、御夫妻で温泉へ行く計画を立てられた。先日頂いた手紙によると、予定通り、たのしい旅の幾日かを過された由で、まことにめでたい。私の方はいまだにうろうろしているが。
「会計」もこの日が最後である。結核予防法その他の社会保障制度は、どんなに進んでも、進み過ぎるということはないだろう。
三月三日(木)晴
加納先生回診。
屋上でT氏夫妻、看護婦さん一同と記念撮影。
十二時退院。
夜、赤飯。ビール。
——この日に退院と決めたのは、べつに桃の節句だからではない。毎週木曜日は、主任の加納先生の回診日である。お世話になった先生方にお礼をのべて退院するには、先生方の顔のそろう回診日が、いちばんいいだろうと、T氏も私も考えた結果であった。月曜は手術日、火曜は検査日で、先生方は手術場を離れないし、廊下も何となく慌しくなる日である。水曜は、加納先生が病院へ来られない。金曜は手術日、土曜は検査日。次の日は日曜で閑散だが、とてもそんなには待てない。
十時半、家内と上の娘が迎えにきた。荷物は昨日の内にあらかた運んでしまったから、何もすることはない。ただなんとなく三人で、にこにこしていた。
十一時すぎ回診。加納先生、浅井先生、主治医の湯浅先生に厚くお礼を申しのべる。
T氏の主治医の石山先生が、屋上で記念撮影をして下さった。
十二時、湯浅先生、主任看護婦の楊さんをはじめ大勢の方々のお見送りをいただいて、無事退院。家へ帰ると、母が門のところまで出迎えてくれた。
家の中は何も変ったところがない。
しばらく床に入って安静。間もなく、下の娘が学校から帰ってきた。この日は、彼女の誕生日でもあった。
同じ日に、雛祭と誕生日と、パパの退院祝いと、三つ重なるのは、何だか損だ、というのが彼女の意見であったが、食卓に赤飯が出ると、まんざらでもないらしく、にこにこ笑い出した。ほんとうは、大分嬉しいのだ。ビールでちょっと乾杯の真似をした。
三月十一日(金)曇
胸の中の音、背中の感じ(湯浅先生)
——手術によって、病気が根治したのだから、もうすこしさっぱりした気分になってもよさそうなものだが、どうも、息をするたびに「胸の中の音」が気になったり、背中の感じが変だったりして、落ちつかなかったのだ。この翌日、病院へ行くことになっていたので、先生に訊ねるつもりで書きとめた。
これは両方とも、まったくの杞憂《きゆう》だったが、体の状態がひどく気になることは、今でも変らない。大きな手術をした後だから、当然だともいえるがそればかりではない。
臆病になったような気がする。
年をとったせいもあるかもしれぬ。
充実した仕事をしなければならぬ。病気ときっぱり縁が切れたことは、何よりだった。しかし、左の胸はまだ痺れたままだ。胸の中には、何だか、大きな異物がわだかまっているような感じがする。こういう感じは、先生方の保証する通り、徐々に消えてゆくものだろうか。もしかすると、このままの状態で仕事をはじめることになるのではあるまいか。
秋から仕事をはじめてよろしいという先生方の意見に従うとすると、ちょうど、丸二年ぶりの仕事ということになる。二年休んでも、演技することを、忘れてはいないだろう。習い覚えた泳ぎは、身についている筈である。しかし、仕事を始めることは、気儘に泳ぐことではない。もし泳ぎにたとえるなら、正式の競技に出場することだ。それまでに、コンディションを調えておかねばならぬ。準備運動も必要だろう。このままの状態が長くつづけば、そういうことは出来難いだろう。そんなことを考える。
しかし、そればかりでもない。
手術後の、苦痛が薄らぐにつれて、私は自分の体が健康をとりもどしつつあることを、はっきり感じることが出来た。毎週の体重測定や、隔週の血沈検査の結果がたのしみだった。健康が、私の唯一の関心事だったのである。
ところが、退院して、自分の部屋に坐り、自分のこれからしなければならぬ仕事のことを考えると、辛い思いをして手に入れた健康が、なんだか頼りないものに思えてくる。入院中は、しっかりと手ごたえのあった筈のものが、ひどく弱い、脆《もろ》いもののように感じられる。
退院後しばらくは、自分の健康になかなか自信がもてないものだと、誰もがいう。そういうことも、あるだろう。
病気をかかえて仕事をしていたときには自分の弱さ、脆さに気がつかず、病気と縁が切れた途端に、それに気がついたというのは、愚かな話だが、気がついただけましということになるかもしれない。
これを書いている今、私は、退院当時より体重が一キロふえ、血色もよくなっている。火曜と土曜には、病院へゆき、注射と診察をして貰っている。体は気になるが、この日記の日付の頃にくらべると、大分、さっぱりした、落ちついた気分になっている。
三月十九日(土)快晴
也寸志結婚式。
一時半、鳥居坂教会へ行く。
二時挙式。式後、菊田一夫氏邸に寄り、一旦帰宅。
五時、東京会館へ行き、記念撮影。
六時より披露パーティー。盛会。
八時半、帰宅。
——弟の結婚式の日である。
弟と草笛光子嬢との結婚については、私としては、何も言うことはない。幸福を祈る。
この日は快晴で、前日には吹き荒れていた風もおさまり、美しい日和であった。
鳥居坂教会で、花嫁を待つ時間、媒酌をして下さる菊田一夫氏と「がめつい奴」の話をする。ロングラン興行では、どうしても途中で配役が変るので、作者、プロデューサーとしての氏の御苦労は、大変なものであるらしい。脇で話をきいている母は、痩せて、何だか顔が小さく見えた。草笛さんは、白いウエディング・ドレスがよく似合い、美しかった。式は予定通り、無事終了した。
この日の夜のパーティーは、大盛会であった。病後、はじめてこういう場所へ出た私は、久しぶりに、次から次へと、友人知己に会い、話し、のぼせたような気分だった。
ウエディング・ケーキにナイフを入れる花嫁花婿に祝福をおくりながら、私は、自分の健康と仕事のためにも、そっと杯をあげたのであった。
——一九六〇年五月 若い女性——