二
主君の座にむかって、官兵衛は一礼した。それから瞼の腫《はれ》へ掌をあてながら、しきりにそこの熱を気にしているふうだった。
向う側の老臣席の者をはじめ、人々は眼をそろえて、ややしばし官兵衛の一身へ、意地わるげな沈黙を向けていたが、官兵衛もまた洒然《しやぜん》と黙りこくっているので、ついに主人小寺政職《まさもと》の一族小川三河守までが、肚にすえかねたような面色をもっていい出した。
「官兵衛どの。大事なご評議を措《お》いて、長いこと、どこへ中座しておられたか」
「や。てまえのことですか」
「ほかにそんな不嗜《ぶたしな》みの侍はこの席におらぬ」
「休息には参ったが、不嗜みではないつもりですが」
「太鼓櫓へ上がって、悠々昼寝してござったは、誰じゃ」
「頭のつかれを一洗《いつせん》するには、眠るにかぎると承知いたす。君前で居眠りも相成らねば、ほんの寸刻、心身をやすめていました。それもお家の為と信じて」
「ご家老」
こんどは蔵光正利《まさとし》が、老人ながら鋭いことばつきで、横あいから叱責《しつせき》を助けた。
「やあ、ご老台……」と官兵衛はその方へすこし膝を向けかえて、
「何事でおざるかの」
と、むしろ昂然《こうぜん》たるふうすら示した。
正利の面は、その白い眉毛が、急に際立《きわだ》つほど、朱《しゆ》になった。
「おぬし、まだ若いので、日ごろはわしも黙っておった。三十歳そこそこでご家老の職をけがしては、思い上がるも無理はないとな。……したがじゃ。きょうはほかの場合でない。お家の浮沈はこの席で、東するか西するか、評議一つで定まるのじゃぞ」
「仰せの通りです」
「にも関《かか》わらず、なんじゃ……」と、蔵光正利は、わななく指を、官兵衛の面へ指して、膝をも共ににじり出しながら、
「その顔は……その顔は、なんじゃ」
「この顔が? いけませんかな」
「おぬし、いつ髯《ひげ》を剃った」
「ただ今。お湯殿において」
「明け方、殿のご仁慈で、つかれた者は一睡せよと、ありがたい仰せがあったこと故、休息の事は、まあ不問にいたしおくも、髯を剃ったり、顔を洗ったり、洒落《しやれ》のめして出てござるとは、いったいどういうご量見か。——余りといえば人もなげな!」
「いや、顔ばかりではありません。含嗽《うがい》もいたし、手足《てあし》も浄めて来た次第ですが」
「なんじゃと」
「沐浴《もくよく》ということをごぞんじないか。謹んで沐浴して来たのが悪いとは合点がまいらぬ」
「詭弁《きべん》を弄《ろう》すな」
こんどは次席の村井河内、益田孫右衛門、江田善兵衛などが、舌鋒《ぜつぽう》をそろえて斬ってかかるように唾《つば》をとばした。
「沐浴とは何だ。何のために沐浴する必要がある。ば、ばかなっ」
それを機《しお》に——ここの一列も以下の諸士も、主人の政職《まさもと》の方へ一せいに手をつかえて、
「かかる心もとない若輩のご家老に、この際の大事をお問い遊ばしても無益というよりは甚だしい危険であると存じまする。何とぞもうお迷いなく、お心を決して、旧来の如く、毛利家にご加担あることこそ、お家の安泰《あんたい》と申すもの。即刻、城下の使館へ、お使いを以て、その儀、ご返答あそばすように。——臣ら一同、かくの如くおねがいし奉りまする」
と、異口《いく》同音に述べた。
西せんか。東せんか。のべつ迷っているような政職の顔いろは、このときまた、衆言にとらわれて、では——と危うく意志をうごかしかけた。それを、
「いや、いかん。断じて、それがしは反対する。毛利方に組することは、自ら滅亡を招くにひとしい。また武門の大義にもとる!」
と官兵衛が、突然、天井《てんじよう》を抜くような大声でいったので、
「なにを」
と、たちまち評定の席は、主人の前をも忘れて、殺気と喧騒《けんそう》に墜ち入った。一部の主家の親族や老臣たちを擁《よう》してもっぱら毛利方に好意を寄せている侍たちの中から五、六名がやにわに突っ立って、
「ご家老とて、もう生かしてはおけん」
と、刀に訴えてもという威嚇《いかく》を示して来たからである。