三
「お坐りなさい」
そういったのみで、官兵衛は座もうごかなかった。重厚な眉毛にやや怒ったらしい色をたたえて、自分へ跳びかかって来ようとする人々を窘《たしな》めたに過ぎなかった。
「ひかえろ、坐らぬか」
小寺政職《おでらまさもと》もつよく叱った。で、憤然《ふんぜん》たるまま、末席の五、六名が唇をかんで、座に直ったのを見とどけると、官兵衛は初めて胸を正した。語気声色、常と変らない彼に回《かえ》っていった。
「——実は、それがしの信念は、かくならぬ日頃のうちに、ご主君のお胸へ、篤《とく》と、おつたえいたしてある。故に、ご評議となっても、事改めて、ご主君へは申し上げることもない。ただ家中一統の者どもが、毛利に味方せん、いや織田と結ばんなど、二派に別れては、由々《ゆゆ》しい破滅と、各の一致を求めらるる旨において、昨夜からのご評議はひらかれておるものとそれがしは信じる。さるを各には」
「だまれっ。それがおぬしの陰謀だ。わしらお家を憂《うれ》うる者どもは、その陰謀に毒されまじと、おぬしの織田説には敢て、雷同いたさんのじゃ」
「しばらく、私にいわせてください」と、こんどは慇懃《いんぎん》に、老臣の言をなだめて——「すでに殿には、神明にお誓いあって、小寺家の向背《こうはい》は、汝の信念にまかせんとそれがしに対しても、ご誓約《せいやく》を下しおかれてあるのですぞ」
「……?」
意外な、といわぬばかりな愕《おどろ》きを人々は眼にこめて、主人政職《まさもと》の方を見た。嘘かほんとか、政職は否定しなかった。官兵衛もまた政職の面にちらと眼を向けた。その眼はまるで彼を睨まえているようだった。
「時の危局を未然に察し、事にあたってうろたえなきよう、日ごろにおいて、主君に忠言を呈し、誤りあれば、面を冒しても諫言《かんげん》をすすめ参らすは、臣の勤めであり、わけて家老の職分と存ずる。何らやましき心はない。また陰謀をたくらむならば、かかる席で公言はいたさん。小川殿、蔵光殿、ほかの方々も、その辺はご安心あってお聞きねがわしい」
「聞けとは何をか」
「それがしの信条《しんじよう》を」
「おぬしの説は、織田一点張りと知れきっておるではないか。ゆうべも聞いた、今朝がたも聞いた。あまりくどく仰せあると、織田のまわし者のように思われますぞ」
「一身の誹謗《ひぼう》のごときは官兵衛すこしも意にかけません。また、たとえこの場で殺されようとも、日ごろの信念は決して変えもしませぬ。いかにも昨夜また今朝、一度ならず抱懐《ほうかい》の一端は申しのべたが、それがしの申すたびに、あなた方が反対召さる。座中ごうごう、紛論《ふんろん》をかもすのみで、何らの効もない。——そこで中座して息抜きをしたわけでござった。またこれへ臨むのに沐浴をいたして来たのは、みだりに口にすべきでない儀を、改めて、これを最後のそれがしの言として、申しあげようと存じたからである。就いては、聴かれる側の貴所方におかれても、そのように不要意なおすがたでは畏《おそ》れ多かろう。——おつかれの上でもあろうが、まず座を直し、襟を正して、しずかにお聞きとりねがいたい」
そういう官兵衛自身はもちろん非難される点もないように正座していた。主人の小寺政職には、何かすぐ胸にひびいたものがあるらしく、そう聞くとすぐ褥《しとね》をわきへ退けてこれも坐り改めた。
主君たる人のその体《てい》を見ては、たとえ一族老臣であろうと、我意を張っていられなかった。各急いで膝を正し、また襟元をあらためた。播州の一隅から出ない地方城主の家中でも、久しいあいだの室町幕府の礼儀式典にやかましい風習だけはよく身に沁《し》みている。こうすがたを揃えて厳粛《げんしゆく》に回《かえ》れば、さすがにみな頼みがいある侍に見えた。