興世王は、亡命して来たのである。
ついに武蔵にいたたまれずに、一族をつれて、国外へ逃げて来たのであった。
前から不和な武芝とも、なお抗争をつづけていたところへ、都から新たに赴任してきた百済貞連とも合わないで、
「ここばかりが天地ではない」
と、夜陰に乗じて、武蔵を立ち退いて来たのである。
——が、ひろい天地とは思ったが、さて見まわす所、坂東十州の平野では、頼む木蔭も多くはない。
「どこへ行っても、昨今、相馬殿の名を聞かぬことはない。将門殿とは、かねて御面識も得ておるし、仁侠寛懐なお方とは、夙《つと》に、お慕い申しておる。甚だ押しつけがましいが、自分以下、一族ぐるみ、お館の端へ、身内の者としてお加えくださるまいか。……推参申したお願いの儀とは、じつはそんなわけでおざるが」
興世王は、こういった後で、かさねて、
「ひとつ、御辺からも、相馬殿へお取りなしを頼む。かくの通りおねがい申しあげる」
と、両手をつかえた。
不死人は、考えた。
これはおもしろい鳥が舞いこんで来た。——こういう人間は、どしどし傘下に集めなければいけない。
不死人の画策からいうと、この館の余りに無事なのは本意に悖《もと》る。なぜならば、かくては、南海にあって烽火《のろし》を待っている純友との黙契が、いよいよ空《むな》しいものになる公算が大きいからである。
富士は噴煙を吐いている。
坂東の平野も、あの如く荒れよ、と彼は思う。
彼は何か、機会をつかんで、点火役を演じなければならない。そして、将門の身辺をつつんでいる無事と安易を吹き飛ばしてしまうことを考えていた。そうしたところへの客である。亡命者興世王が同勢を持ち込んで来たのである。
(これは歓迎すべき窮鳥だ。何とか、将門を説いても、仲間に加えてやろう)
不死人の肚はそうきまったが、これを将門に取次いでみると、彼の助言などは不必要であった。なぜならば、興世王の事情を聞くと、将門は、旧事も忘れて、率直にその境遇に、同情して、
「それは、可哀そうだ」
と、いうのである。
「ひとたびは、権守まで勤めながら、一族をつれて、他国へ流亡《るぼう》し、おれの門に頼って来るとは、よくよくな事だろう。西ノ柵の内に、一構えの屋敷が空いているはずだ。あれへでも入れてやれ」
数日の後には、興世王の妻、女、童、下郎たちも辿りついて、彼の一家族だけでも五十人近い人間がまた、豊田曲輪《ぐるわ》のうちに住むことになった。
いわゆる風を慕って集まるというものであろうか。相馬殿の門へ頼ってゆけば、何とかしてくれる——と伝え聞いた者共が、興世王のほかにも、幾組もあった。
しかし、そういう類の者は、いずれも曰く付きに極まっている。もっとも、それを承知で、禍いも共に、ひきうけたと、呑み込んでやるのが、後世のいわゆる仁侠の親分であり、その性情は、武蔵野人種のあいだには、将門時代から持ち前のものであったらしい。
天慶二年の秋、十月初めの頃だった。
常陸の国から、また、この下総豊田へ、流亡して来た人間がある。
藤原玄明《げんめい》といって、常陸の官衙で、少掾の職にあった男である。
これも大勢の妻子や召使を連れ——
「どうか、お匿《かくま》いねがいたい」
と、泣きこんで来たのであった。
玄明は常陸の下官として、余り評判のいい男ではない。
彼が、下官のくせに、つねに上司に反抗し、粗暴で冷酷な官吏だということは将門もかねてうすうす耳にしていたので、
「玄明が職を離れたのは、いずれ自業自得というものだろう。そんな者、匿まってやるわけにはゆかぬ。追い払ってしまえ」
と、彼だけには、いつもの寛度も仁侠も示さなかった。
「いかにも、仰っしゃる通り、狡智《こうち》に長《た》けた官僚くさい男ですが……ただ彼奴は、常陸の内情をよく知っているはずでしょう。そこでいろいろと訊いてみると、お館にとっては、ゆるがせに出来ない一大事をふと口走りましたよ。じつに意外な事を」
不死人はこういって、人を焚《た》きつけるような眼をかがやかした。将門は、つい引きこまれて、
「なんだ。おれにとって、ゆるがせにならぬ一大事とは」
と、早口に訊き返した。
「右馬允貞盛が、とうから常陸へ帰って、密々に、また策動をめぐらしているらしいので……」
「なに、貞盛のやつが?」
貞盛ときくと、将門はすぐ鬼相《きそう》を現わした。骨髄《こつずい》から滲み出して面にたたえる彼への憎悪と、警戒と、そして忘れ難い怨みに燃える眼は、到底、不死人がいたずらに努めている煽動の眼などとは比較にならないものである。