玄明の妻子や召使も、また、豊田の内に匿まわれた。
同時に、この人物の密告が、将門を驚かせたことは一通りでない。
いや豊田、御厨、大葦原、石井などにある彼の一族をして、
「油断はならぬぞ。……いつのまにか、貞盛めが、また常陸へ潜りこんでいるというぞ」
とばかり、すべてに、ただならぬ緊張を持たせた。準戦時体制に入ったように、川すじには哨兵を立て、夜は夜警の兵を布いて、
「——ござんなれ、貞盛」
という将兵の眼光であった。
では、藤原玄明が、どういう密告をここに齎《もたら》したのかといえば、それはただ、右馬允貞盛が常陸にいるというだけのことでしかない。
しかし、常陸との国境は、一衣帯水《いちいたいすい》だ。将門にすれば、それだけでも、枕を高うしてはいられない。警戒の理由は、充分にある。
さらに、その後、玄明の手によって、貞盛が常陸で何を企んでいるかという輪郭は、追々《おいおい》に、明らかになった。
常陸の国司(長官)藤原維茂と、貞盛とは、切っても切れない間である。——貞盛の姉は維茂の妻だった。
この義兄の子息に、為憲《ためのり》という者がある。貞盛とは、叔父甥仲だ。
為憲は、文官の父親には似ず、弓馬の達者で、常に、国庁の兵を、私兵のようによく動かし、わが家にも、子飼いの武者をたくさんに養っている。——玄明のことばによれば、もし為憲が指揮をとれば、少なく見ても、三千の兵馬はいつでも自由に駆使する力があるという。
貞盛は、相変らず賢明だ。決して、表に自分は立たない。
そして、為憲を、抱きこみ、
「もし、あなたが、わが家の恥辱をそそいで給わるならば——そして大きくは、治国と平和のために、兇暴将門を、討ち取ってくれるならば、亡父国香の田領《でんりよう》の一半は、お礼として、あなたに献上しよう。……また、国家への功労としては、私から太政官へ申請して、かならず相当な官位叙勲《じよくん》のあることを、お約束申してもよい」
と、ことば巧みに、説きつけていた。
さなきだに、弓馬にかけては、自信のある為憲である。心を動かさないはずはない。
「私の言は、決して、空言《そらごと》ではありません。——かくの如く、いつにてもあれ、将門討伐の官命はあることになっているのです」
と、貞盛はなおも、官符の写しや、訴状に関する書類を示し、また中央における堂上の空気なども、つまびらかに、為憲に語って、
「いま、大功を立てようとするならば、将門を討って、太政官の嘉賞を賜う事が第一でしょう」
と、この血気なる地方武者を、煽動した。
「やるとも」
と為憲は、功に燃えた。
「わしにとっても、将門は、縁につながる人々の仇敵だ……やらいでか、いつの日にか」
「しかし、先へ行くほど、将門の兵力は、強大になります。いつの日にかといってはいられません」
「味方は、誰と誰か」
「群小の族《やから》は、頼むに足りません。もしあなたが、かたく誓うならば、私は、これこそと思う胸中の一人物を、三寸不爛《さんずんふらん》の舌頭《ぜつとう》にかけても、きっと起たせてみせますが」
「ふウむ……。そんな大人物が、どこにいるのか」
「ここから遠くない下野の田沼におります。あなたとは、姓も同じ藤原氏ですが、所の名を称えて、田原藤太秀郷《ひでさと》とよばれている人ですが」
「ああ田原藤太殿か。……だが、あのような人物が、味方に起つだろうか」
「私が説客として参るからには、かならず起たせずには措《お》きません。……かつはまた、秀郷自身にも、充分、色気はあるのです。彼が欲しいものは、何であるかを、貞盛は知っていますから」
「どうして、それが分る?」
「かつて、田沼の館に、一夜を過ごした事がある。その折の彼の語気で、彼は決して、今の下野の押領使ぐらいで、満足しているものではないことを見抜いています。むしろ、野望満々たる人物です。けれど老獪ですから、将門のような下手はしません。——将門に、野を焼かせ、芦を刈らせておいて、後から、麦や麻でも植えようと考えているのが、藤太秀郷であると——私は見ました」
「怖ろしい人物だな。ちと、小気味の悪い……」
「それ程な者でなくては、味方に寄せても寄せ効いがありますまい」
「それはそうだ……。相手は将門だし」