「下野殿には、どこへ行かれたのか?」
と、斎藤下野の家人《けにん》に訊いても、口をつぐんで一切知らないというし、日頃、親しい友人にたずねても、
「一向《いつこう》に存ぜぬが」
と、共に不審がるばかりであった。
邸《やしき》を窺《うかが》うと、病気で寝ているふうもない、召使は厳重に口止めされているらしい。こうなるとなお知りたいのが当然な心理である。
「わかった!」
ひとりが、衆へ伝えた。
もう秋ぐち、つい二、三日前から八月だった。旗本辛崎図書之助《からさきずしよのすけ》が、同じ組の血気な中堅ばかりの寄っている城中の用部屋《ようべや》へ来て、
「——見えないはず、彼は和睦《わぼく》のお使いとして、ひそかに甲州へ赴《おもむ》いている」
と、声を大にして告げたのだった。
そう物事には愕《おどろ》かない面《つら》がまえばかり揃っていたが、これには唖然というよりは、頭上から磐石でも加えられたように、ぐっと、いちど息を呑んでから、眼を大きくして、
「えっ。ほんとか」
と、いった。
「かような重大事が、戯《たわむ》れに口に出せようか」
と、図書之助は、大小にかけていいきった。
かれのことばによれば、かれの叔父にあたる黒川大隅守《おおすみのかみ》も先頃からいなくなっている。病中病中といっていたが不審のかどがあるので、従弟妹《い と こ》にあたる娘をおどかしてついに真相を聞き出したというのである。
「では、斎藤下野について、黒川大隅も甲州へ行ったというのか」
「さればだ。密々、下野に正使を仰せつけられ、副使には黒川大隅が添い、もう十日も前に、この春日山を出立しているという」
「……知らなかった」
「知れようわけはない。もし漏れては、家中の異論や動揺まぬがれ難しと案じて、老臣衆が相計《あいはか》って、極秘裡《ごくひり》にお使者を甲州へ遣《や》ったものらしい」
呆れはてて次のことばも吐けないでいる顔ばかりだった。——が、そのまま冷却できるような薄い血《ち》の気《け》ではない。しばらくするとその沈黙は勃然《ぼつぜん》とここ数旬にもなかった危険な形相をおびて爆発した。