信濃《しなの》入り——
と聞くだに、血は鳴り、肉はうずき、武者ぶるいを禁じ得ないのが、越後上杉衆の常であった。
相手にとって不足のない敵国。うらみかさなる敵国。かぶと、具足《ぐそく》の緒《お》を締めながらも、
「このたびこそ」
と、みな誓い、
「徳栄軒信玄の首を見ずには」
と、みな思う。
それは部将以下の平侍から足軽にいたるまでの一貫している精神だった。
天文、弘治以来、連年といってよいほどな両国間のたたかいに、親を討たれ、子を亡《な》くし、或いは兄弟を失っているなど、箇々の宿怨は小さくもあれ、国是《こくぜ》として、
(武田の阻害あるうちは、この国の成長なり難く、この国の生命もなし)
という謙信の信条が、全家中の骨髄《こつずい》に刻《きざ》みこまれていた。火の玉のような一団の信念になっていた。
いわんや、こんどの出陣。待ちに待っていたものである。
この四、五十日間を、足ずりしていただけに、いよいよ八月十四日、春日山を雷発、信濃へ、信濃へ、と合言葉のように軍令が伝わるやいな、
「わあっ……」と、越後城下にはおのずからな声《こえ》海嘯《つなみ》が捲きあがったものだった。そして電瞬のまに各、物の具をつけ、馬を曳き、軍需の物を積み、馬揃いに群《む》れ集まって、貝が音《ね》、太鼓の音とともに進発する軍隊に対して、領下の老幼男女《なんによ》は、いつまでもいつまでも声涙を抑えて見送っていた。その中には一万三千の軍勢に伍して行く者たちの妻もいた、老父もいた、妹もいた、母もいた、友もいた……。