ひと口にいえば一万三千といえる兵数だが、これが山を越え、谷をめぐり、峰に攀《よ》じ、里に炊《かし》ぎ、越後から信濃へ殺到するには、壮観も壮観だが、たいへんな難行であった。
しかもその難行の道は、生きてはふたたび帰るまい——とみな誓っている道だった。
行軍は、先鋒隊の前に、放ち物見《ものみ》、大物見を先に、四段に備え立て、中軍をまん中に、鉄砲隊、弓隊、槍隊、武者隊とつづき、兵糧《ひようろう》、軍需の物を積んでゆく荷駄隊は、最後方から汗をふりしぼってそれに従《つ》いて行った。
「ふた手に分れよう」
富倉峠の手前まで来ると、主将謙信はそういって、前後の幕将を見まわした。
長尾遠江守——中条越前守——柿崎和泉守——甘糟《あまかす》近江守——宇佐美駿河守——和田喜兵衛——石川備後《びんご》——村上左衛門尉義清——毛利上総《かずさの》介《すけ》——鬼小島弥太郎——阿部掃部《かもん》——直江大和守——鮎川摂津守《せつつのかみ》——高梨政頼——新発田《しばた》尾張守、同じく因幡《いなばの》守《かみ》治長《はるなが》の兄弟など、いわゆる智将、猛将は、雲集していた。
「誰と。誰と。誰は——」
と、謙信はいちいち名ざして、部将を分け、軍を二分した。そして、
「一軍は、野尻を越えて、善光寺へ出でよ。一軍は謙信みずから率いて、富倉峠をこえ、千曲《ちくま》の畔《ほとり》へ出るであろう」
と、告げた。更に、
「いずれから行くも、落会う先は、犀《さい》、千曲の流水《な が》れを遠からず、川中島のあたりと知れ。十六日の夕までには、謙信はかならずそこに着陣せん。べつの道を行く者共も、その時刻におくるるな」
と、厳令した。
こうして、二軍となって、わかれた時が、すでに十五日の午《ひる》だった。あすの夕刻までに、犀川《さいがわ》、千曲川のあたりまで行き着くには、不眠不休の行軍をつづけなければならないだろう。
が、たれひとり「無理」とつぶやく者もなかった。行軍の苦しさは出ばなにある。最初の二、三日に苦しんでしまうと、何か、自分とはべつな、鉄の五体ができて来る気がするのだった。わけて越後衆は、合戦といえば、いつも国境を出て戦うことが定則になっていたから、かかる急行軍とて、決して、異とはしなかった。
謙信の統率する本隊は、翌る日のまだ陽の高いうちに、高井郡をよぎって、敵の海津城を牽制《けんせい》しつつ、候可峠《そろべくとうげ》から東条方面へ蜿《うね》って行った。
ここはもう完全なる敵地——信玄の勢力下であり——海津の城には、甲軍の猛将として聞えている高坂弾正昌信《こうさかだんじようまさのぶ》の精鋭がたて籠っているのである。
「追うや、いかに?」
と、謙信が、その動静を計っていると、城の望楼に、豆つぶのような武者の影が二、三、小手をかざして、こっちを眺めている様子だった。
途中から軍を二つにして、謙信自身、わざと迂回《うかい》して来たのは、自分の選ぶ基地を有利に占《し》め取るまで、この城から側面へ行動されるとうるさいし、十分な布陣を取れないおそれもあるので、その牽制《けんせい》と示威《じい》とを目的にしたものだった。
城頭のやぐらに登って、それを見ていた小さい人影の中には、かならず城将の高坂弾正もいたにちがいあるまい。
「——来たな」
と、見ているが、彼のほうも沈着だった。すでに甲府表へは、つなぎ烽火《のろし》で報らせてある。軽々とうごくべきではない——としているようだった。
「はてな……。どこまで進む気か?」
むしろ、怪しんでいるかのごとく、城方《しろかた》の者は、いつまでも手をかざして、越後軍の行くてを凝視《ぎようし》していた。
なぜならば、謙信の率《ひき》いてゆく旌旗《せいき》は、犀、千曲の二大河をこえ、城から約一里ほど東南の妻女山《さいじよさん》に拠《よ》ったからである。見れば、善光寺方面から真黒に流れて来たべつな一軍も、同じ地点に合し、いよいよそこを足場とするもののごとく、最後の荷駄隊も、馬背《ばはい》のものや牛車の物を降ろしている。そして、夕陽の赤々とうすずいて来るころには、妻女山一帯に、各隊その部署につき、旌旗はしきりに風をよび、軍馬はいななきぬいていた。
「妙なところに。……有るまじき布陣だ。あんな危地へ深入りして来るとは」
高坂弾正の兵学では、これを解釈できないものだった。敵の意をはかりかねた彼は、いよいよ城を固くして、ひたすら信玄の来るのを待つと極《き》めていた。