また朝を迎えた。
すでに八月二十八日。
裾花川《すそばながわ》を辿《たど》って、長野、善光寺方面へ、大物見に行っていた山県三郎兵衛、原隼人《はやと》などの隊が帰って来て、
「旭城の方にも、何らのうごきは相見えません」
との復命を齎《もたら》した。
信玄は、聞くと、
「確《しか》と、旭城の小柴宮内《こしばくない》は、城を出るような気《け》ぶりでないか」
と、念を押した。原隼人も、山県も、
「ございませぬ——」と、はっきり言葉をかさね、
「妻女山の兵と、旭城の兵とが、わが軍を誘うて、挟撃《きようげき》に出んなどとは、思いもよらぬことであります。そんな憂いのないばかりか、お味方がかく双方のあいだを中断するの位置に布陣いたした為、妻女山への食糧の輸送すら敵は困難を極めているものと見られまする」
と、明言した。
信玄の面に、一瞬ではあったが、慄然《りつぜん》とした気泡が泛《う》いた。それの去ったとき、彼は、数日来の疑問を解いていた。謙信の心態《しんてい》がある程度、信玄の心に映じていたのである。
「伝右、伝右。——初鹿野伝右衛門やあるっ」
旗本たちの詰めている幕《とばり》のうちへ向って、信玄の声がしたのは、それから間もなくであった。
「——おりまするっ」
伝右衛門は、風吹く幕の裾を走りくぐって、すぐ信玄の床几の前にひざまずいた。
「伝右か、使いに行って来い」
無造作《むぞうさ》であったが——
「寄れ、近く」
と、その威光のある眼がさしまねいたので、伝右は、何か、はっとした感じをうけながら膝がしらで、だだと床几へ近づいた。
「妻女山まで」
——後は、何を命じたか、その囁きはあまり小声で聞えなかった。もっとも信玄の側にはその時、幕将も祐筆《ゆうひつ》もことごとく遠ざけられていたのである。
程なく、初鹿野伝右衛門は、敵の妻女山へ行って、謙信と会うべく、使者たる盛装を凝《こ》らしていた。
陣羽織も更《か》え、下帯《したおび》まで新たにして行った。戦場の使いであるだけに、血ぐさい身装《みなり》や血汐の痕《あと》などは、殊更に注意して避けるのだった。もちろん敵の本営中で万一という場合に備えての、死の「身ぎれい」も充分考慮されていることはいうまでもない。
部下を四、五名連れて行った。
その中には、味方の誰かが率いて来た初陣の息子でもあろうか。まだ十三、四歳にしか見えない少年武者もひとりいた。その小童は、柄の長い日傘を携えて、伝右衛門がやがて陣地を離れて、千曲川の岸まで来ると、ぱっと、日傘をひらいて、主人の頭上に翳《かざ》し懸けた。
この傘は決して無意味な行装ではない。
軍使の川渡りは、船中、傘をさすことが、国際法に約されているのである。傘を開いて渡って来る舟には決して弾や矢も放たぬことになっている。
田船を大きくしたような底の平たい川船は、いま、その日傘をさし懸けた小童とその主人と、わずかな部下を乗せて、千曲川の北岸から此方へ棹《さお》さしてきた。——迅い水流を切っては、あざやかに棹を突いて船をすすめてくる兵の上に、赤とんぼが戯《たわむ》れていた。棹の端に止まったり、離れたりして——。