戦争とは、結局、人の力と力との高度なあらわれである。古今、いつの時代であろうと、その行動の基点から帰趨《きすう》まで人の力にあることに変りはない。政略、用兵、経済、器能の働きはもちろん、自然の山川原野を駆使し、月白烈日の光線を味方とし、暗夜暁闇の利を工夫し、雲の去来、風の方角、寒暑湿乾の気温気象にいたるまでのあらゆる万象を動員してそれに機動を与え、生命を吹きこみ、そして「我が陣」となす中心のものは人間である、人間の力でしかない。
だから、戦国は、人を磨く。
また、箇々のものも、他に求められるまでもなく、各磨かなければ、時代の戦国を生きぬいては行かれない。
どしどし踏みつぶされ、落伍してゆく。
惜しまれるものの生命すら、顧みられず、また、顧みる遑《いとま》もなく、先へうごいて行く世だった。惜しまれもせぬものの生命などは、何ともしない。
わけていま、永禄四年ごろは、後の天正、慶長などの時代よりは、もっともっと人間が骨太《ほねぶと》だった。荒胆《あらぎも》だった、生命を素裸にあらわしていた。
越後衆も甲府衆も、負けず劣らず、そうであった。
対立して称《よ》ぶところの「上杉陣」「武田陣」というその「陣」なるものは、そうした人の力のかたまりであった。平常の心の修養と肉体の鍛錬をここに結集して、敵味方に不公平なき天地気象の下に立ち、
「いで!」
と、たがいの目的、信念をここに賭《と》し、ここに試そうとするものである。
従って、その集結、その「陣」を構成している箇々の素質の如何によって、陣全体の性格と強靭《きようじん》かまた脆弱《ぜいじやく》かのけじめが決まる。
いま、千曲川をへだてて、雨宮の渡しにある武田の陣と、妻女山の上にある上杉陣とを、そうした観点から見くらべたところでは、いずれが強靭、いずれが脆弱《ぜいじやく》とも思われなかった。どっちの陣営も、その旗の下にある宿将、謀将、部将、士卒まで、実に多士済々《たしさいさい》といってよい。
名君のもとに名臣あり、ということばから推《お》せば、その偉さは、やはり主将の信玄にあり、謙信にあるのかもしれない。
越後の名臣と、世間から定評あるものは、宇佐美、柿崎、直江、甘糟《あまかす》だといわれているし、甲州の四臣として有名なものには、馬場、内藤、小畑《おばた》、高坂《こうさか》がある。
また、過ぐる年の原之町の合戦では、単騎、上杉勢の中へ奮迅して来て、二十三人の敵を槍にかけ、槍弾正という名を謳われた保科弾正《ほしなだんじよう》や、それに劣らない武功をたてて鬼弾正とならび称された真田《さなだ》弾正のような勇士も、その部下にはたくさんいた。
槍弾正も、鬼弾正も、甲州方の勇士であるが、上杉勢の下にも、武勇にかけてなら、彼に負けを取らないほどな者は、無数といっていいほどいる。
謙信が人いちばい目をかけていた山本帯刀《たてわき》などは、阿修羅《あしゆら》とさえ称ばれた者であった。いつの戦いでも、退《ひ》け鉦《がね》が鳴って味方が退き出しても、いちばん最後でなければ敵中から帰って来なかった。そしてその帰ってくる姿はいつも兜のいただきから草鞋の緒まで朱に染まっていた。また、どんな大将首を獲っても、腰につけて持って帰ることはしなかった。それでは、軍功帳に記録されないで、
「折角の軍功も無駄になるではないか」
と、人がいうと、彼は、
「軍功に、無駄なし」
と、答えたという。
功名のために、首を荷にして持ちあるき、首の数など心がけていては、次々の働きに邪《さまた》げとなる。そういう彼の信条だった。
で——彼のことを、首捨《くびすて》帯刀《たてわき》などと、越後では綽名《あだな》したが、そのため軍功帳にのぼらず、長年のあいだ、足軽五十人持ぐらいの一部将にとどまっていた。
それとなく主君の謙信が、彼に目をかけてやっていたのは、そういう理由にもあるが、また、もう一つべつな事情にもあった。
山本帯刀の実兄は、甲州の謀将、山本勘介入道道鬼だということが、たれいうとなく知れわたっていた。
よく調べてみると、父親は異《ちが》うらしいが、幼少はひとつに育った勘介の異父弟にはちがいないことが分った。——しかし、兄が甲軍の内にあるからといって、その後、甲越両軍の数度の合戦の場合でも、帯刀の働きは、ほかの戦陣の場合と、すこしも変りはしなかった。
烈しくさえあった。
「——さりとはいえ、兄弟両陣にわかれての働きは、人の子として、辛くもあろう、味方の者に、憂《うれ》えたき思いをする日もあろう」
日ごろからそういっていた謙信は、永禄元年の和睦——甲越の一時的な和議のできた年に——とうとうこの鍾愛《しようあい》して措かない大事な家来を三河の徳川蔵人《くらんど》元康《もとやす》へ遣ってしまった。ねんごろな自分の書面に、使者の芋川平太夫を添えて、
(他家へゆずり難い最愛の家臣であるが、云々《しかじか》の事情故、当人も不愍《ふびん》とぞんじ、離し難きを離すのであれば、どうか末長く目をかけてやってほしい)
と、使いの口上にも意中をふくませて、その将来を呉々《くれぐれ》も頼んだのであった。