その初鹿野伝右衛門は、きょう武田方の使者として、この妻女山の陣にのぞみ、はからず旧知鬼小島弥太郎に会って、謙信本陣の小屋がある山上まで登ってゆくうち、敵味方とも思われないほど、親しげに語らいながら歩いて行ったが、弥太郎がこの人物に傾倒しているいわれは、あながち甲府に潜《ひそ》んでいた時代に、彼のために救われたという一片の私情だけによるものではなかった。
その為人《ひととなり》を、甲府にいたころ、何かと聞いていて、
「甲府の中でも、武士の中の武士」
と、ひそかに認めていたからである。
そのころ、甲府の町にまで伝わっていたはなしに、こんな噂もあった。
躑躅《つつじ》ケ崎の館《やかた》で、伝右衛門が君前から退がって来るとき、殿中のお次の間に、御坊主の刀がおいてあった。
過《あやま》って、それを伝右衛門が、踏みかどうかしたものか、御坊主が立腹した。甚だしく赫怒《かくど》した。
「此方《このほう》のたましいを、何で足にかけられた」
と、御坊主も武士並《なみ》にいうのである。
いったい坊主はひがみッぽい。武勲というものを持たないから武勲の士に対してひがむのである。そして内政的な権力によって対抗を計る。そんな感情が日頃にある。故に、こんな時とばかり承知しない。どうしても肯《き》かないのである。
「申しわけない。かくの通り、伝右衛門、両手をついてお詫びいたせば」
彼は、平伏して、飽《あ》くまで詫びていた。それにもかかわらず相手の坊主は、
「詫びただけではすまされぬ」
といいつのり、果ては、伝右衛門が、いかにせばよろしいかというと、
「あなたは、わしの刀を足げにした。わしだって、せめてそのあなたの頭へ、一拳《けん》与えるぐらいな返報をせねば、虫がおさまらぬ」
と、いうのだった。
伝右衛門は、平伏したまま、身をすすめて、
「然らば、どうか」
と、頭をさしのべた。
御坊主は、力まかせに撲《なぐ》った。
はなしは、これだけのことに過ぎないが、甲府の城下民は伝え聞くと、
「さすがに、お偉い」
と、みな伝右衛門の心事を解して同情した。
なぜならば、伝右衛門が、戦場に出るときは、常に兜《かぶと》の前立《まえだて》にも、その旗さし物にも、将棋の駒の「香車《きようしや》」を印としているほどな勇士であることを、誰も知っているからだった。
後には退かじ——という意気をその「香車」の前立に旗印に公約している人だった。そのお人が、ただ心なく、御坊主の勢力におそれて、その拳《こぶし》に頭を打たせたはずはないと、誰しもすぐ察しられて、一しお床《ゆか》しげに伝えたものだった。
このことは、ずっと後に、大坂城中にあった木村重成のこととされて、重成の為人《ひととなり》を知る逸事の一つとなってしまったが、伝右衛門であったというこの方が、それよりも以前に民間では語られていたらしい。
——それはともかく。
ここ妻女山の陣中を、使者初鹿野伝右衛門は、鬼小島弥太郎の案内について、やがて謙信の座所へと行った。
謙信は、報らせによって、はや床几について待っていた。