辰の刻(午前八時)頃から本格的な戦いに入った両軍は、午の刻(正十二時)になっても、まだ野面《のづら》いちめんに、濛々、乱れ合って、一瞬も、死闘の叫喚を休めていなかった。
曾《かつ》ての、どんな乱軍にも、崩れた例がないといわれている甲軍中の鉄壁、牛久保衆までが、その隊形を失って、思い思いに死闘している様を見ては、甲軍の者すべて、
「今は、これまでか」
と、味方の総敗軍を観念せずにいられなかった。
牛久保衆というのは、三州牛久保の産、山本道鬼入道を初め、大仏庄左衛門、諫早《いさはや》五郎など、すべて同郷の勇将猛卒で組織されている真っ黒な一隊だった。笠も兜も具足も旗も悉く黒ずくめで、
「ここの崩れるときは甲軍全滅のときだ」
とは、常にその牛久保者が豪語していたところである。
きょうは、遂に、その日か。
牛久保隊も支離滅裂の状態に駆け散らされ、しかも目撃した者もないが、首将山本勘介も、乱軍のなかに、討死していた。
越後方の戦後の軍功調べによれば、山本入道を討った者は、柿崎和泉守の家来、萩田与三兵衛、吉田喜四郎、河田郡兵衛、坂乃木磯八の四人掛りで仕止めたものとなっている。
そして場所は——字東福寺の沼木明神の傍らとなっており、またその首を洗った所は、八幡原の内の水沢といわれているが、そこで洗った法師首は一個だけでなく、実は三人分の首を洗い、そのうちの一つが似ているというところから、山本入道の首級と届け出されたものである為、上杉家の内でも、後には、
「果たして、勘介入道の首級であったか否か、明確でない」
と、疑問に附されてもいる。
もっとも、山本勘介という人物そのものの在否すら、むかしから問題になっていて、「武功雑記」には、上泉伊勢守とその弟子の虎伯《こはく》とが、京都の帰途、三州牛久保の牧野家で、山本勘介と出合ったことが記載してあり、「北越軍記」には、居たようにも誌し、居なかったようにも書いてある。「甲陽軍鑑」の信玄公軍法の御挨拶人としては、
——馬場美濃、軍ノ成サレ様ヲ申シ上ル也。他国ニテ陣場ヲ見定メルコト、ソノ他ノ布陣、原隼人、モツパラ御談合ヲ受ク
とあって、いわゆる帷幕《いばく》の軍師として隠れない山本勘介なるものの名は見あたらない。
とはいえその甲陽軍鑑や武功雑記などからして、どの程度まで真をおけるものかとなると、やはり限度がある。
で、ここにはやはり勘介なる人物がいたものとし、ただその最期のもようをつぶさにするよすがもない遺憾だけを記述しておくにとどめる。