善光寺の東南、裾花川を前にして、直江大和守は、大荷駄、小荷駄を集合し、なお他の部隊の散兵も、悉《ことごと》く容《い》れていた。
大戦の翌日も、その翌日も、踏み止まって。
一方、犀川まで退いて、残兵を寄せていた甘糟近江守とも、完全に連絡をとった。そして、合流し、川中島の曠野から近村隈なく兵を派して、味方の死骸、負傷者、旗の折れまで、残りなく陣中に収容した。
もちろん主君の安否については、犀川の上流で殿軍《しんがり》したという千坂内膳、芋川平太夫、その他の旗本たちのことばに依って、無事御帰国という推定はついていた。旗本たちとしては、知れないまでも、謙信のあとを慕ってと、いい合ったことでもあるが、
「かえって、敵に、御主君の道すじを、教えるようなものになる」
と、直江大和守は、極力、それを止めた。
悠揚《ゆうよう》迫らざるもの。それこそこの退き口の大事であるばかりでなく、次の軍への備えであるといった。
戦後の、きのう今日。
この態《てい》を遥かに望んでいた甲州軍の方では、
「直江、甘糟など、なお程近い裾花川にあって、敗軍の兵をまとめております。われわれども一手ずつの兵をひきいて、疾風、そこを撃つならば、生きて越後に帰り得るものはないでしょう」
と、小畑山城守を初め、気負いきった諸将はみな、信玄の前に出て、こう進言したり、希望したりしたが、信玄は、
「いやいや、止めたがよい。あの大傷手《おおいたで》をこうむりながら、なお自若《じじやく》として、わが陣前近く、三日にわたって、芝居《しばい》(戦場)を踏まえているは、敵ながら天晴者よ。——うかと手出しして、窮鼠《きゆうそ》に噛まれなどいたしたら、其方どもよりは、信玄が世のもの笑いとなろう」
そういって許さなかった。
三日目から四日目にかけて、越後勢は、この野へきたときと何らの変化もなかったように、旗鼓《きこ》堂々、北へさして徐々に引揚げて行った。