三
亭主は、こはだの鮨《すし》を売りに歩いている、階下《し た》には、内儀《か み》さんが、小僧相手に、こはだの小骨を、毛抜きで抜いていた。
間の悪そうな顔をして、梯子段《はしごだん》を降りてきた庄次郎へ、手を拭いて、
「旦那、しがらき茶屋へ、お忘れ物をしたでしょう」
「いや、べつに」
「でも、これが、届いております」
渋沢栄一の財布だった。
連中が置いて行った物だろう。彼らの肚《はら》はすぐ覚《さと》れた。庄次郎は苦いものを噛んだように、
「そうか」
袂《たもと》へ入れた。
追いつくように、お蔦も降りてきた。そして何か、鮨屋《すしや》の内儀《か み》さんに囁いていたが、やがて、
「後生——家《うち》へは内緒」
立ちかけると、
「また、飽きないようにね」
内儀さんは、背中を打って、下駄をそろえた。
その日が、口切りで、二人の下駄はその後三日目、四日目ごとに、鮨屋の土間に脱がれていた。
「浮気性《うわきしよう》という女だ、もう逢うまい」
何度も、心では省《かえり》みながら、お蔦の誘惑に勝てなかった。
新妻の照子は、うすうす、気づいているらしい。だが、貞淑のいかめしさを崩《くず》さない婦人だった。それがまた庄次郎には、面白くない。いつまで経《た》っても婚礼の夜の間違いが、あの不満が消えないのが禍根だ。時には、不愍《ふびん》と思おうと努めても、より以上、自分の過失が不愍であったし、何となく、先でも打ち解けきれない様子が、日ましに、家庭を冷やかにして、
(この女は、間違って、俺の所へ嫁《き》たのだ)
そんな気持が、努力だけでは、取り除けないのであった。
(兄は、このごろ、少しどうかしているぞ)
書斎から眺めている八十三郎には、少し感づきかけて苦い顔をしている父、そっと涙を拭いた後の兄嫁の瞼《まぶた》、これで土肥安泰とひとりでめでたがっている楽天家の叔父——それらの人々の顔つきが、冷静に、見較べられた。
「このままでは済まんな。この古い家のしんとした空気は、暴風雨《あ ら し》のくる前駆《まえぶれ》に似ている。……それもよかろう、土肥家の根太《ねだ》も古すぎた。幕府の御家人なら親木と一緒に腐るのが当然だし、暴風雨《あ ら し》は、やがて、一軒の家ばかりでなく、地上のあらゆる古いものを吹き倒壊《た お》す雲行きをしている。……俺は勉強しよう。次の時代に生きる支度をしよう」
幕士には禁制の蘭書《らんしよ》を机の下へかくして、父の眼をぬすんでは読み耽《ふけ》っている八十三郎だった。