カウンターの隅の電話機が、ときおり鳴った。遅い場合でも、二度目のベルの音で、受話器は木岡の手に掴まれていた。
間を置かずに、女の名を呼ぶ木岡の声がする。けっして、電話の相手の名を問い返すことはなかった。
十一時を過ぎると、かかってくる電話の数が目立って多くなる。呼ばれて席を立つ女に、二人の青年は口々に揶揄の言葉を投げかけた。
「あやしい電話」
「間夫《まぶ》はひけどき」
気軽な口調だが、青年が閉店の時刻を待ち構えていることは、あきらかであった。ゆみ子は、十一時をすこし過ぎたときの電話のことが、気に懸っていた。木岡がめずらしく女の名を呼ばずにしばらく応答し、電話を切った。間もなく、註文の品を運びに立ったよう子と木岡との間に、短かい会話があった。どちらもその内容は聞き取れなかったし、取立てていうほどの疑わしい気配はないのだが、奇妙にゆみ子の心に引懸った。木岡への電話と、よう子と木岡との会話との間に、つながりがあるようにおもえてくる。
閉店十分前になったとき、不意によう子が腹痛を訴えた。
「ママ、すみません。お先に帰らせてもらうわ」
「困るな、約束はどうなるんだろう」
強い言葉ではなかったが、一瞬、青年の顔色が変り、こわばりが頬に残った。
「食べ過ぎか」
もう一人の青年が、憮然として言った。
「女がおなかが痛くなるのは、食べ過ぎだけとは限らないわ」
マダムが言葉を挿み、その青年のとまどった表情がすぐに消え、
「なるほど、そうか、そうか」
「そうなのよ、ごめんなさい。今度、またね」
そう言ったときには、よう子はすでに立上り、裏の出口に向って歩き出していた。ゆみ子の傍を通り抜けるとき、素早い合図があったので、一足遅れて裏口へ出た。
「あの坊や、あんたにあげるわ。からかってごらんなさい」
「いまのが、放っぽり出したということなの」
「まさか。ほんとに、おなかが痛くなったのよ」
よう子は腹に片手を当てがい、半ば笑いながら大仰に顔をしかめてみせた。
店に客がいなくなり、ゆみ子があと片づけを手伝っているとき、木岡が耳もとでささやいた。
「今日は、よう子と一緒にきましたね」
「わざわざ、寄ってくださったの」
「あの女は、新しく入ったひとに、興味をもつのが癖なんだ。それで、途中いろいろ人生観みたいなものを喋ったでしょう」
「…………」
「理屈をたくさん言ったでしょう」
「…………」
「あの理屈はね、あとからくっつけたものですよ。あの女は、もともとそういう女なんだ。躯の隅から隅まで、そういう按配にでき上っているんだ」
ゆみ子は木岡の顔を見た。彼の意図が分らない。よう子との間に特殊なつながりがあることを仄めかしているようにも聞える。そのことを、心得させておこうとでも言うのだろうか。
木岡は言葉をつづける。
「もともとそういう按配だというのは、これは強い。本人はそこのところがよく分らなくて、理屈を欲しがる。よう子の理屈は、みんなぼくがつくってやったものさ」
ゆみ子は、もう一度、木岡の顔を見た。
バーテンの木岡は、ゆみ子の眼を無視して背中を向け、洋酒の棚の戸締りをはじめた。棚の前面に、鎧戸《よろいど》に似た覆いをおろし、鍵をかける。その作業の途中で、手をとめた彼は、首だけゆみ子の方に捻《ね》じ向けた。その視線は、ゆみ子の顔からしだいに下降して、躯の輪郭を撫でるように動いた。
「誘われるのか」
とおもったとき、まったく別の言葉が彼の口から出た。
「あんたで、勤まるかな」
「わたし……」
ゆみ子という危険な名前をそのままかかえこもうとしたときと同じ表情が浮び、口が開きかかった。しかし、木岡の言葉のほうが早かった。
「この商売は、はじめてだね」
「ええ」
新聞の案内広告欄で、ゆみ子はこの店に来た。
「あんたを見れば、それは分る。酒を売る店はたくさんあるが、クラブとバーでは営業方針が違う。キャバレーとなると、また別だ。うちはクラブということになるが、同じクラブと名のつく店でも、一軒一軒微妙なちがいがある。それぞれ家風のようなものがあるわけだ。その家風のおおもとには、まずマダムの営業方針とか性格とかがある。家風に合わないホステスは、勤めても長続きしない。だから逆に、古株のホステスをみれば、その店の家風が分る……」
ゆみ子は、長く勤めている女たちを頭の中にならべてみた。よう子、よし子、それになおみ……。その三人だけだ。
「よう子さんとよし子さんとは、ずいぶんタイプが違うとおもうけど」
「よし子は、よう子を立てているからな。それに、違うようで、じつはあまり違いはしない。いまに分る。しかし、分る頃まで勤まるかな」
木岡は同じ言葉を繰返し、吟味する眼でゆみ子を見た。