いま私の目の前に、ハガキ大の和紙の紙片が一枚ある。昨年、邱《きゆう》永漢さんの自宅でシナ料理をご馳走になったときに、テーブルに出ていたのを貰ってきた。
邱さん宅には幾度か招待してもらったが、その度に色紙が用意されていて、その日のメニューが列記してある。招かれた客は、そこに署名する。次の回のときに、同じ料理を出さない用意のためだそうだが、このときには前の回のときと同じ料理が一つだけあった。
これは、私が強く希望して、食べさせてもらったためだ。八つ頭を平たく切ったもののあいだにサンドイッチの中身のように豚のアバラの身(だろうとおもうが、まわりに脂身の多い部分である)を挟《はさ》んで蒸した、薄味の料理である。
絶品なので、どうしてもと頼んだ。その後、邱さんがなにかに発表した「自分の選ぶ三つのシナ料理」のなかに、これが入っていたところをみると、私の舌もまんざらではない。
その日のメニューを、写してみる。
菜 単(メニュー)
一、冷盆 オードブル
二、菜花羹 カリフラワーのスープ
三、※金銭鶏 トリモツとブタニク
四、醤爆蟹 カニ炒め
五、芋頭扣肉 ヤツガシラとブタニク蒸し
六、豆※生※ カキのハマナットー炒め
七、野鴨火鍋 カモのホンデュー
八、四色素菜 ヤサイの精進煮
九、麒麟蒸魚 タイのムシモノ
十、※[#「食へん」+「媼のつくり」]飩 ワンタン
十一、沙谷米羹 タピオカのデザート
十二、生果 フルーツ
シナ料理のメニューは、むかし、中国の宮廷料理などの場合は二十品以上の数になると聞いているが、十二品とはたいへんな数である。
女は結婚して主婦になると、たちまち変貌して別の人間になってしまう、というのが私の持論である。しかし、邱さんの夫人を見ていると、例外とおもえてくる人柄である。このように客を招待するときには、夫人は数日前から台所に入って、準備しなくてはならないらしい。
乾燥して保存してあるフカのヒレを、食べられるように|もどす《ヽヽヽ》ためには、台所の壁から天井までアブラだらけになるらしい。
このごろでは、だいぶ日本語が上手になったが、以前はニコニコしながら姿をみせて、
「ナンニモナイヨー」
といいながら、料理をすすめてくれる感じが、じつによろしかった。
邱さんは直木賞作家で、十数年前に受賞した。近年、韓国作家が芥川賞を受賞したり、活躍したりしているが、当時ははじめての外国籍の受賞作家だった筈だ。その後、陳舜臣さんが直木賞になったが、この人はたしか神戸生れである。
邱さんは商才豊かなので、その後事業に成功して大金持になった。もう、小説を書くなどという面倒くさいことはしない。
「金もアキたし、うまいものは毎日食ってるし、つまんないよ」
もちろんユーモアまじりの言葉であるが、そんなニクラしいことを言う。『食は広州に在り』というのは邱永漢の名著で、こういう人が本物の(というか良い意味での)食通といえる。