「すっかり勤まってしまったね」
木岡が、ゆみ子の眼を覗くようにして、言った。夕方、「銀の鞍」の近くの喫茶店で、二人は向い合って坐っていた。
「勤まり過ぎてしまったかな」
木岡は口を歪め、言葉をつづける。
「しかし、油谷という男には注意したほうがいいな。すこし異常なところがあるようだ。きみも、そうおもうだろう」
「まじめなお話がある、ということだったけど……」
「つまり、そのことだ。油谷のような男じゃなくて、もっとまともな紳士はいくらもいる、というわけだ」
ゆみ子は首をまわして、ガラス窓の外の街に眼を放った。夜がくる直前の、薄明るい灰色の街である。厭な気配が、木岡から伝わってくる。彼の話の内容は、予測できる。しかし、分りたくない、とゆみ子はおもい、黙ってガラス窓の外の街路に眼を向けている。赤く塗った小型自動車が、のろのろ走って行くのが見えた。異様に遅い速度で走ってゆき、現実ばなれしていて、夢の中の光景のようにみえた。真紅の塗色は消防自動車のほかは禁じられているので、臙脂《えんじ》がかったくすんだ赤で、その赤が灰色の景色に滲んでみえる。気遠い心持がゆみ子を捉えかかったとき、木岡の声が聞えた。
「よう子が妊娠してね」
その言葉の唐突さで、ゆみ子の眼が窓の外の風物から剥がれた。
「妊娠……」
気遠い気分の残っているゆみ子は「この男は何を言っているのだろう」とおもった。よう子の妊娠と自分と、どういう関係があるのだろう。しかし、妊娠という言葉といまの自分とは、かかわり合いがないわけではない……。ゆみ子は椅子の上で、かるく躯を揺すった。油谷とホテルへ行ったのは、一昨夜のことだ。それなのに、まだ躯の中に油谷の気配が残っている。その夜、ゆみ子は躯の中に油谷の精液を感じ、その感じが尾を曳いて残っている。油谷には萎えた躯しか予想していなかったので、妊娠についての心くばりはしていなかった。
自分にも妊娠の可能性はできている、とゆみ子は鋭い不安を感じ、すぐにその不安を烈しく追い払った。厭な記憶が、その不安よりもはるかに強く浮び上りかかったのに気付き、ゆみ子は頭を空白にしようと試みたのである。
しかし、追い払いきれぬものが残った。そのとき、木岡の声が聞えた。念を押すように、彼は同じ言葉を繰返す。
「よう子が妊娠してね」
「…………」
「今度は、産むつもりらしい。父親がいまの亭主とはっきりしているのでね」
「それで」
「それで、と聞くことはないだろう。おれとよう子とのつながりは、分っているとおもうが」
「分るような気はするけど、でも、それがどうしたの」
「くわしく説明させるのか。いま、よう子は二ヵ月だ。あと二ヵ月もすると商売ができなくなる。つまり、よう子の替りが必要になってきた、というわけだ」
「厭」
反射的に、強い言葉が出た。分りたくないものを、剥き出しにされたのだ。木岡は、すこしも動揺することのない眼で、ゆみ子を眺めている。その眼に反撥して、かえって冷静になった。
「わたしのこと、そんな女だとおもっていたわけなのね」
「女なら誰だって、できることさ。きみだって、勤まらないかもしれないとおもっていた店に、ちゃんと勤まっているじゃないか」
「…………」
「それに、安っぽい街の女じゃないのだよ。誰でもできるといっても、よう子の替りは誰にでもつとまるというわけのものじゃない。なな子にしてもるみにしても、替りにはならないさ」
「褒めているの」
「褒めているのさ」
笑いを浮べて答える木岡の顔に、ゆみ子は言葉を投げつけた。
「でも、厭」
「厭なものは、無理にすすめられないからね。しかし、ずいぶん得な取引なんだがな、損なことをするよう子じゃないのは、分っているだろう」
「厭」
「厭なら、すすめないよ」
木岡はゆみ子から眼を離さずに、言った。窺い、測っている眼である。