豪傑とか剣豪とか呼ばれる人物が、たとえば茶店に入って、ドッカと腰をおろすと、
「酒をもて」
といえば似合う。
「あるじ、アマザケをもて」
となると、落着かない。
しかし、酒の飲めない豪傑もいないとはいえない。堀部安兵衛の養父弥兵衛は下戸《げこ》であった、という。
赤穂浪士四十七人が目的を果したあと、四カ所の大名屋敷にあずけられて、裁きを待つことになった。泰平の世に、武士らしい振舞いということで、どの大名も丁重に取りあつかった、という。
たとえば、二汁五菜の食事が供され、夜になると「薬酒」という名目で、酒が出た。酒の飲めない人たちには、甘霙が出た、とは研究書の一節である。甘霙とは甘酒のことで、風流な名だが、そういえば醗酵《はつこう》した麹《こうじ》のつぶつぶは霙《みぞれ》に似ている。
酒粕《さけかす》を湯で溶いて甘味をつけたものを、甘酒と呼ぶこともあるが、結局そっちはインスタント製品ということになるだろう。
そういう待遇をしたということは、罪人あつかいにしていない、と考えてよい。
浪士側にしても、切腹させられるとはおもっていなかったようだ。
いま私は、テレビの「堀部安兵衛」で、時間が足らなくて話せなかった部分を書いている。ただし、日本歴史について私がくわしいわけではなく、安兵衛を以前に小説に書いたことがあるので、そのあたりだけいくぶんの知識がある。
切腹ときまったとき、奥田孫太夫という勇ましい働きをした武士が、
「自分は切腹の作法を知らぬから、教えてもらいたい」
と、同僚に頼み、
「いまさら、そんなことをしなくてもいい。そのときになって、前の刀に手を伸ばせば、介錯《かいしやく》人が首を切ってくれる」
そう教えられた、という。
毛利家でも、浪士を十人あずかって丁重に待遇していたが、切腹の当日には扇子を十本紙に包んで支度しておいた。これは「扇子腹」という方法で、やはり介錯人に百パーセント頼ることになり、義士にはふさわしくない。
討入りから切腹まで三カ月近くあったのだから、そのあいだに作法を学んでおくことができた筈である。となると、やはり浪士側では、切腹を予想しなかったという考え方も出てくる。
なにしろ二百八十年前のことで、正確なことは分からない。
当時の義士の人気に反撥して、難癖をつけているのかもしれないと疑われる研究もある。
大石内蔵助は、敵の目をごまかすために、遊び呆《ほう》けているふりをしていた、というのは有名な話である。
しかし、大石は根っからの遊び好きだった、その証拠には……、という研究書もあり、その証拠にはなかなかの説得力があるが、長くなるので省略する。
しかし、大石は大へんな寒がりで、討入りの日に大雪が降って閉口した、という意見となるといささかアヤしい。あるいは、当日はよく晴れた月夜で、雪など降らなかった、という説もあるし、雪は宵のうちだけ降って、あとは月夜となった、という説もある。
いずれにせよ、牡丹《ぼたん》雪が絶え間なく舞い下りていないと、芝居ではサマにならない。