山藤章二は、よく気のつく(悪い意味で)男である。このごろの私の文章に「按配」という単語が多いことに素早く気づいて、それに関連したイラストを描いた。このときの私の似顔は、いつものヒドさより、さらに五倍は悪相である。
ところが、それがまたよく似ていて、憎みて余りあるというか、ニクいというか、おもわず笑ってしまうというか、とにかくそういう按配《ヽヽ》である。
じつは、私もそのことに気づいていて、ときどき別の表現に変えたりしていたが、指摘されて参った。しかし、按配という単語は、按配がよろしいので、つい使用してしまう。
これは山藤章二もまだ気づいていないだろうが、処女作から去年までの二十五年間、私は人間のからだを「躯」と表記していた。今年になって、「体」に変えた(と書けば、山藤のヤローは以前の作品は読んでないから知らない、というだろう)。
以前は、「躯」と書かないと気持がおさまらなかったのだが、このごろこの文字をみると、押しつけがましい感じを受けるようになってしまった。その一つの文字だけ、浮び上ってみえてしまう。あるいは、これは私が初老になったためかもしれない。
数年前にできた言葉に、「時点」というのがある。この単語を使わなくても一向に困らないのに、やたらにこれが氾濫《はんらん》しているのが気に入らない。ただ、東海林さだおあたりが使うと、意識的に使用してこの単語をカラカっているようにおもえ、ユーモラスに感じる。ただ、こういう事柄も、かなり主観的なことなので、深くこだわることもないのだろう。
数日前、甚だ気にくわないことが、じわじわ幾つも重なって、久しぶりにゼンソクの発作を起し二日間苦しんだ。過労と風邪気味が重なっていたためで、いつもなら一日寝ていれば治るのだが、このときには苦しんで一日に四キロ痩《や》せた。
ただ、ゼンソク症状というのは、夜が昼になるように一夜で解消する。
三日目の朝、早く目が覚めたのでテレビのモーニング・ショウをみていると、立春の日だと分かった。司会者はなにも言わなかったが、立春には卵が立つ。「コロンブスの卵」のように殻を潰《つぶ》さないでも、立つ。
二十数年前に実験して、立った。以来忙しさやその他いろいろに紛れて、試みたことがない。なぜ立つかの物理学的解明は忘れてしまったが、地球にもいろいろ異変が起ってきているので、今でも立つだろうか、とさっそく台所へ行った。
生卵を一つ持ってくる。
食卓の上に立ててみると、かなり注意深く扱わないと倒れるが、ついに立った。
あとはつぎつぎと立って、食卓の上に十個の生卵が直立して整列した光景は、なかなかの壮観であった。
このことは、案外知らない人が多い。興味のあるかたは、来年の立春まで待って、試みてみるとよい。なにしろ、一年に一度しか立たないのだから。それにしても、立春の日に早く目が覚めなかったとしたら、一生もう卵を立ててみることはなかったかもしれない。
さて、ここで凡庸なイラストレーターならば、私の文章の中に出てくる「初老」という単語と「一年に一度立つ」という言葉を組合わせることで、意地悪なイラストを描くだろう。
しかし、山藤先生は才能抜群の人物である。いかなるイラストをお描きになるだろうか。