金田一耕助はいよいよ奇異の眼を見張って、
「しかし、警部さん、血をふきとって、いったいどうしようというんです。これだけの大
惨劇を演じながら……」
「だからわからないといってるんです。いや、わからんといえばこの事件は、わからんこ
とばかりですよ」
等々力警部は顔をしかめて、いまいましそうな舌打ちをする。
金田一耕助は死体から眼をはなすと、改めていま写真班が撮影している円卓のうえを眺
めた。
円卓のうえには砂鉢が、昨夜のままおいてある。しかし、そのうえに架けられた、五本
の放射竹をもった乩けい卜ぼくは、もう昨夜のままではなかった。それは無残にへし折ら
れ、がっくりかたむき、砂鉢の砂が大きくかき乱されている。しかも、その乩卜といわ
ず、砂鉢の砂といわず、飛びちる血潮に真紅にそまっているのである。
金田一耕助は息をころして、そのなまなましい血の跡をながめていたが、ふいに大きく
眼を見張った。直径一メートル半もあろうかと思われる、あの大きな砂鉢の砂の、一部分
たいらにならされているところに、判でおしたように、赤黒い血でもって描かれているの
は、なんと、あのまがまがしい火か焰えん太だい鼓こ、悪魔の紋章ではないか。
金田一耕助はぎょっとして、目賀博士の方をふりかえった。目賀博士もそれに気がつい
ていたに違いない。金田一耕助と視線があうと、ギコチない空から咳せきをしながら顔を
そむける。三島東太郎はぼんやりと、不思議そうな顔をして、悪魔の紋章とふたりの顔を
見くらべていた。
金田一耕助は円卓のそばへよって、悪魔の紋章のうえにちかぢかと顔を近づけて見る。
それは縦の直径二寸五、六分、横の直径二寸足らず、大きさといい形といい、昨夜砂の
うえに描かれていたものと、そっくりそのままだった。残念ながら砂鉢の上が搔かきまわ
されて昨夜描かれたあの形は、あとかたもなく消えているので、較くらべて見るすべはな
かったけれど。
金田一耕助は警部のほうをふりかえった。
「警部さん、これを忘れないように撮影しておいてください。この悪魔の紋章を。……」
「悪魔の紋章だって?」
「そうです、そうです。ほら、そこに血でもって宝珠の玉みたいな形が描いてあるでしょ
う。それを忘れないように、写真にとっておいてください」
やがて室内の撮影がすっかり終わると、等々力警部が合図をする。すると廊下に待って
いたふたりの刑事がはいってきて、観かん音のんびらきの扉をしめたが、金田一耕助はそ
のときはじめて、一枚のドアのうえに、斧おのでたちわられたような、大きな裂け目がで
きているのに気がついた。
刑事はドアをしめると、なかから掛け金をかけ、閂かんぬきをはめる。それから引きし
ぼってあった黒いカーテンをしめたが、見るとそのカーテンのうえにも、いちめんに血の
飛沫しぶきがとんでいるのである。それはまだ生乾きのあいだに、誰かカーテンを開いた
ものがあると見えて、かなり、すれたり、こすれたりした跡があるが、血の飛沫がとんだ
とき、カーテンがこうして、しめられていたことはあきらかだった。
「目賀先生、これで……」
等々力警部が目賀博士のほうをふりかえると、
「いや、あの換気窓が……」
と、目賀博士は三島東太郎のほうをふりかえり、
「なあ、三島君、あれもたしかに締まっていたんだったな」
「ええ、そうです。そうです。わたしが外から開いたのですから」
「ああ、そう、それじゃその窓もしめてくれたまえ」
警部が合図をすると、刑事のひとりが椅子を持ってきて、ドアの内側においた。それか
らその上にあがると、ドアの上にある、横に細長い換気窓のガラス戸をしめた。こうして
刑事がどこもかしこも締めてしまうと、等々力警部はあらためて部屋のなかを見まわし、
それからきっと、目賀博士と三島東太郎の顔を見た。
「目賀先生」
そういう警部の声には、なにかしら一種異様なひびきがあった。
「それじゃ、あなたがたが今朝の三時ごろ、この事件を発見された時には、部屋の状態は
こんなふうになっていたとおっしゃるんですね」
「そうです。そうです」
目賀博士は不安そうに、蟇がま仙人のような顔をしかめながら、
「なあ、三島君、このとおりだったなあ」
「はあ、あの……でも、そのドアにはむろん裂け目なんかなかったんです。あれはぼくが
薪まき割わりを持ってきて、ぶちわったものですから。……そしてそこから手を突込んで
掛け金をはずし、閂を引き抜いたんです」
三島東太郎も不安そうに、そわそわと部屋のなかを見まわしている。あいかわらず右の
手には、安っぽい軍手をはめていた。
警部は燃えるような眼で、ふたりの顔を見くらべながら、
「それにもかかわらず、あなたがたがはいってきたときには、部屋のなかには被害者以外
誰もいなかった。しかも、あのカーテンのむこうにある窓も、全部内側から掛け金が掛
かっていたとおっしゃるんですね」
さっきから不思議そうに、刑事の行動や警部の言動を見まもっていた金田一耕助は、そ
のとき突然、ガリガリバリバリと、めったやたらにもじゃもじゃ頭をかきまわしはじめ
た。
「そ、そ、それじゃ警部さん、こ、こ、これは密室殺人なんですか」
「密室の殺人……?」
等々力警部は金田一耕助のほうをふりかえると、まるで嚙かみつきそうな調子でいっ
た。
「そう、なんといったらいいのか知れんが、こんなことが果たしてありうるだろうか。こ
こには明らかに格闘のあとがのこっている。被害者はあの仏像で殴られたらしく、後頭部
にふたつ三つ傷があるうえに、最後に大きな裂傷をうけているんです。そのうえにああし
て襟巻きで首をしめられて……直接の死因が後頭部の傷にあるのか、絞殺によるものか、
それは解剖の結果を見なければわからないが、とにかく自殺でないことは明らかです。そ
れにもかかわらず、あの換気窓から、この部屋の惨状を見つけたこのひとたち、このふた
りのほかに美禰子さんや女中のお種、それから被害者の愛あい妾しようの菊江という婦人
もいっしょだったそうですが、そのひとたちがドアをやぶって部屋のなかへはいってきた
とき、被害者のほかには誰もいなかった。しかも、窓という窓は全部、内側から掛け金が
掛かっていたというんですが、そんなことが果たしてありうるだろうか」
等々力警部の声は次第にたかまり、その頰ほおは真まつ赧かに紅潮している。
金田一耕助はいかにも嬉うれしそうにめったやたらに、頭のうえの雀すずめの巣をかき
まわしていた。