あとでわかったところによると、洋室のほうにはひとつひとつバスとトイレがついてい
るのだが、和室のほうにはそれがなく、いま金田一耕助が身を浸している共同浴場のほか
に、内部から鍵かぎをかけてアベックで入れるような小さな浴場が、適当に間配られてい
るらしい。
いま金田一耕助の身を浸している共同浴場は、日本家屋と洋風建築のちょうど中間にあ
たっているらしく、さっき座敷にいたときには、遠くはるかに聞こえていたものが、ここ
へくると急に身ぢかにせまってきたのもそのせいらしい。
あたりは闃げきとして静まりかえっている。おりおりけたたましい鵙もずの鳴く音が、
あたりの静寂をひきさくばかりで、どこに人間が住んでいるのかと疑われるばかりであ
る。その静寂をつんざいて、あるときは惻そく々そくとして嘆くがごとく、あるときは堰
せきを切られた奔流の怒り猛たけり狂うがごとく、聞こえてくるそのフルートの音は、椿
元子爵家のあの不倫と背徳にみちみちた事件の思い出がなくとも、たしかに一種異様な音
ね色いろをおびているように思われる。
それにしても……と、金田一耕助はひろい浴槽に身を浸したまま考える。あのフルート
の奏者はいったいだれなのか。このホテルはまだ開業していないはずなのだ。したがって
いまこの建物のなかにいるのは、建物の持ち主篠崎慎吾とその近親者か、従業員しかいな
いはずである。従業員のなかにあのように巧妙に、フルートを奏しうる人間がいようとは
思われない。いま金田一耕助が耳を傾けているフルートの奏者はあきらかにプロである。
金田一耕助はふとさっき聞いた速水譲治の言葉を思い出した。古館元伯爵もきていらっ
しゃると。しかし、古館元伯爵の辰人という人物が、フルートをよくするとは聞いていな
かったが。……
フルートの音はそうとう長くつづいていた。わりに緩やかなテンポをえがいていたメロ
ディーが、とつぜんまた、急速にたかまりいく怒気と怨おん念ねんをたたきつけるよう
に、はげしい旋律を刻んだかと思うと、フーッとそのまま消えてしまって、あとは黄昏た
そがれどきの高原の闃とした静寂である。
金田一耕助は浴槽のなかでおなじ姿勢をたもったまま、その静けさの中からなにかを探
り出そうとするかのように、しばらく耳をすましていた。しかし、人の気配はどこにもな
かった。
金田一耕助はもういちど湯舟のなかで、ぶるッと身ぶるいをしたが、すぐ首を左右に
ふって、自分で自分にいってきかせるようにつぶやいた。
なんでもないんだ。なんにもありゃアしないんだ。だいいち自分はきょうここで、何事
が起こったのか、いや、何事が起こりつつあるのか、それすら知っちゃいないじゃない
か。それにさっきの譲治の態度や顔色からすると、まだなにも起こったようでもない。し
かし、と、すると篠崎慎吾のいう事件とはなにごとだろう。
金田一耕助はもういちど頭を左右にふって、大きく浴槽の表面を波立たせながら、タイ
ル張りの洗い場へ出た。そして古ぼけた安全カミソリで、薄い、まばらな髭をそりはじめ
た。浴場を出ようとするとき、またフルートの音が聞こえてきた。
脱衣場にはお杉さんの持ってきてくれた、粗あらい模様の浴衣と、まだ真新しい褞袍が
そろえておいてあったが、金田一耕助はわざとそれを避けて、くたびれたセルの着物によ
れよれの袴を身につけ、もとの座敷へかえってしずかに煙草たばこをくゆらせているとこ
ろへ、お杉さんが迎えにきた。
「旦那様がお眼にかかるそうでございます」
「ああ、そう」
腕時計をはめながら文字盤に眼をやると、きっちり四時だった。
ひとりでおっぽり出されたら、路に迷いそうな廊下から廊下へと、女中の案内について
いくと、やがて女中がお入側に手をつかえた。お入側というのは縁側のもうひとつ内側に
ついている、畳敷きの廊下のことである。
「あの、お客様をご案内いたしましたが……」
「ああ、そう、金田一先生、さあ、どうぞ、どうぞ」
と、なかからずっしりと重みのある、幅のひろい男の声が弾んできこえた。
「いやあ、どうも……お招きにあずかりまして……」
と、金田一耕助は一歩襖ふすまのなかへ踏みこんだせつな、思わず大きく眼を見張っ
た。