「乗る人があるからって――余りだ。あれで布設したのは世界一だそうだぜ」
「そうでもないだろう。世界一にしちゃあ幼稚過ぎる」
「ところが布設したのが世界一なら、進歩しない事も世界一だそうだ」
「ハハハハ京都には調和している」
「そうだ。あれは電車の名所古蹟だね。電車の金閣寺だ。元来十年一日のごとしと云うのは賞める時の言葉なんだがな」
「千里の江陵一日に還るなんと云う句もあるじゃないか」
「一百里程塁壁の間さ」
「そりゃ西郷隆盛だ」
「そうか、どうもおかしいと思ったよ」
甲野さんは返事を見合せて口を緘じた。会話はまた途切れる。汽車は例によって轟と走る。二人の世界はしばらく闇の中に揺られながら消えて行く。同時に、残る二人の世界が、細長い夜を糸のごとく照らして動く電灯の下にあらわれて来る。
色白く、傾く月の影に生れて小夜と云う。母なきを、つづまやかに暮らす親一人子一人の京の住居に、盂蘭盆の灯籠を掛けてより五遍になる。今年の秋は久し振で、亡き母の精霊を、東京の苧殻で迎える事と、長袖の右左に開くなかから、白い手を尋常に重ねている。物の憐れは小さき人の肩にあつまる。乗し掛る怒は、撫で下す絹しなやかに情の裾に滑り込む。
紫に驕るものは招く、黄に深く情濃きものは追う。東西の春は二百里の鉄路に連なるを、願の糸の一筋に、恋こそ誠なれと、髪に掛けたる丈長を顫わせながら、長き夜を縫うて走る。古き五年は夢である。ただ滴たる絵筆の勢に、うやむやを貫いて赫と染めつけられた昔の夢は、深く記憶の底に透って、当時を裏返す折々にさえ鮮かに煮染んで見える。小夜子の夢は命よりも明かである。小夜子はこの明かなる夢を、春寒の懐に暖めつつ、黒く動く一条の車に載せて東に行く。車は夢を載せたままひたすらに、ただ東へと走る。夢を携えたる人は、落すまじと、ひしと燃ゆるものを抱きしめて行く。車は無二無三に走る。野には緑りを衝き、山には雲を衝き、星あるほどの夜には星を衝いて走る。夢を抱く人は、抱きながら、走りながら、明かなる夢を暗闇の遠きより切り放して、現実の前に抛げ出さんとしつつある。車の走るごとに夢と現実の間は近づいてくる。小夜子の旅は明かなる夢と明かなる現実がはたと行き逢うて区別なき境に至ってやむ。夜はまだ深い。