隣りに腰を掛けた孤堂先生はさほどに大事な夢を持っておらぬ。日ごとにの下に白くなる疎髯を握っては昔しを思い出そうとする。昔しは二十年の奥に引き籠って容易には出て来ない。漠々たる紅塵のなかに何やら動いている。人か犬か木か草かそれすらも判然せぬ。人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬようになって始めて真の過去となる。恋々たるわれを、つれなく見捨て去る当時に未練があればあるほど、人も犬も草も木もめちゃくちゃである。孤堂先生は胡麻塩交りの髯をぐいと引いた」
「御前が京都へ来たのは幾歳の時だったかな」
「学校を廃めてから、すぐですから、ちょうど十六の春でしょう」
「すると、今年で何だね、……」
「五年目です」
「そう五年になるね。早いものだ、ついこの間のように思っていたが」とまた髯を引っ張った。
「来た時に嵐山へ連れていっていただいたでしょう。御母さんといっしょに」
「そうそう、あの時は花がまだ早過ぎたね。あの時分から思うと嵐山もだいぶ変ったよ。名物の団子もまだできなかったようだ」
「いえ御団子はありましたわ。そら三軒茶屋の傍で喫べたじゃありませんか」
「そうかね。よく覚えていないよ」
「ほら、小野さんが青いのばかり食べるって、御笑いなすったじゃありませんか」
「なるほどあの時分は小野がいたね。御母さんも丈夫だったがな。ああ早く亡くなろうとは思わなかったよ。人間ほど分らんものはない。小野もそれからだいぶ変ったろう。何しろ五年も逢わないんだから……」
「でも御丈夫だから結構ですわ」
「そうさ。京都へ来てから大変丈夫になった。来たては随分蒼い顔をしてね、そうして何だか始終おどおどしていたようだが、馴れるとだんだん平気になって……」
「性質が柔和いんですよ」
「柔和いんだよ。柔和過ぎるよ。――でも卒業の成績が優等で銀時計をちょうだいして、まあ結構だ。――人の世話はするもんだね。ああ云う性質の好い男でも、あのまま放って置けばそれぎり、どこへどう這入ってしまうか分らない」
「本当にね」