紺の糸を唇に湿して、指先に尖らすは、射損なった針孔を通す女の計である。
「糸公、誰か御客があるのかい」
「ええ、甲野の阿母が御出よ」
「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい叶わない」
「でも品がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」
「そう兄さんが嫌じゃ、世話の仕栄がない」
「世話もしない癖に」
「ハハハハ実は狐の袖無の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」
「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」
「いえ、上野や向島は駄目だが荒川は今が盛だよ。荒川から萱野へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」
「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。
「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」
「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」
「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山はないぜ」
「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を借してちょうだい」
「そうして裁縫を勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石の指環を買ってやる」
「旨いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」
「あるのって、――今はないさ」
「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」
「えらいからさ」
「まあ――どこかそこいらに鋏はなくって」
「その蒲団の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落かい」
「これ? 奇麗でしょう。縮緬の御申さん」