ここは都会からずっとはなれた、ある山すそ。近くには人のけはいはなく、動くものといえば、時おり風で動く夏の花と、飛びかうアブぐらい。
人のけはいはなかったが、森のはずれに一軒の家があった。傾きかけた家で、まわりでは石垣の跡らしいのが|苔《こけ》むしていた。
エンジンの音が空気をふるわせ、一台の小型車が細い道を揺れながら走ってきて、そのそばで止まった。二人の青年がおりた。このあたりの地図をひろげ、ひとりが、汗ばんだ指でその上を叩いた。
「ちょうど、ここを通過することになる」
「変な家があるな。なんだ、これは」
「村の人の話だと、落ち武者が住みついた家だそうだ。もっとも、四百年ほど昔のことだがね。だが、その一族が滅んでからは、亡霊が出るとうわさされ、ずっと住む者も近よる者もなかったそうだ」
「面白い伝説だな。しかし、工事は進めなくてはならない。たかが一軒半日もあれば片づくだろう」
二人の頭で、ヘルメットが白く輝いていた。彼らは土木技師。この山すそをかすめて、高速道路が建設されるのだ。計画は順調にはかどり、道路は近くまで伸びてきていた。耳をすますと、かすかに建設機械の音を聞くことができた。
「なかに、なにかあるだろうか」
「あるものか。だが、のぞいてみるか」
二人は家に近よりかけたが、ひとりが足をとめて、声をあげた。
「あっ」
「どうした」
「屋根から石ころが落ちてきた。ヘルメットをかぶってたので、なんともなかったが」
「古い家だからな。少しの震動でも崩れるのだろう。入っては危い。ブルドーザーを呼んで、取りこわそう」
二人は車にもどり、小型の無線で連絡をとった。
「すぐ来るそうだ。それまで待とう」
車内のクーラーは、ほどよくきいていた。
うす暗く、カビのにおいのこもった家のなかで、かすれたような声がおこった。
「なにものかが、迫ってきたようです」
なにひとつ動かないなかで、べつな声が低く答えた。
「そうか。だが、おそれることはあるまい。われわれが落ちのび、ここにたてこもって以来、四百年ちかく、侵入を許したことはない。そうであろう」
「はい。さきほどの二人は、屋根から落とした石に驚き、ひきかえしていったようです。まず、安心でございましょう」
しばらく声がとぎれ、床下の虫の声だけになった。しかし、はげしい地響きの迫ってくるけはいがして、声たちは、ふたたびささやきあった。
「妙な音が近づいてくる」
「ふしぎな形をした乗物でございます。手ごわそうに思えます。いかがいたしましょう」
「しぶといやつらじゃ。あの枯れかけた木を倒してみよ」
石垣に近づいてくるブルドーザーの前に、木が倒れて横になった。しかし、進むのを止めることはできなかった。
「相手はひるみませぬ」
「では、もっと近づいた時、石垣を少し崩し、押しつぶしてしまえ。いたしかたない」
ブルドーザーの先端が石垣に当ると、石のいくつかが転げ落ちた。しかし、その鋼鉄の車体は、へこみもしなかった。運転していた男は、技師たちをふりむいて言った。
「簡単すぎて、手ごたえがないくらいですよ」
「そうか。作業がはかどるな。よし、つぎは家のほうをたのむ」
技師は作業の指揮をとった。石垣はたちまち崩され、運転手は家にむけてハンドルをまわした。
「敵はいっこうにひるみませぬ」
と、家のなかの声たちは、あわてていた。
「では、木の葉を散らし、セミどもを黙らせて、驚かせてみよ」
やがて、理由もなく何枚かの青い葉が散り落ち、一瞬、セミの声が鳴きやんだ。静寂がただよう。しかし、この不吉なムードも、ブルドーザーのたてる響きと震動のなかでは、少しも意味をなさなかった。
「もはや、防ぎようがありませぬ」
「ひるむな。われらは、この家を守らねばならぬ。扉をかたく閉ざせ」
「立ち退いたほうがいいと存じますが」
「いかん。四百年このかた住みなれたこの家を捨てて、移るあては、ほかに求めようがない」
風もないのに、音をたてて扉が閉じた。だが、ブルドーザーの運転手はそれを気にもとめず、鉄の刃をはげしく家の一角に押し当てた。そして、ちょっと首をかしげた。
「おかしいな。くさりかけた家なのに、意外に丈夫だ」
家は、せいいっぱい抵抗を示していた。しかし、長くはつづかなかった。悲しげな音とともに壁が崩れ、古びた板がはがれ、年月のにおいを含んだほこりが舞いあがった。
鉄の刃は容赦せずに作業を進めた。床下のカエル、天井のネズミ、柱の割れ目の虫やクモが、不意の明るさにとまどいながら、草むらへ、森へと逃げていった。散らされたカビの胞子は、光のなかをどこへともなく流れていった。
「このまん中の柱が、なかなか倒れません」
運転手の声に、技師は指示を与えた。
「馬力を最高にあげて、やってみろ」
ブルドーザーはいったん後退し、エンジンの音をいちだんと高め、勢いをつけてぶつかった。
柱は苦しそうな叫び声をあげ、やがて、ついに地面に横になった。
「やれやれ、全部こわれました」
「おい、あそこに古い井戸がある。工事の邪魔にもなるから、このがらくたを集めて埋めてしまってくれ」
「はい。そうしましょう」
壁土、瓦、ぼろぼろの木片などが、押されて穴のなかに落ちていった。何回かの往復でその作業は終り、エンジンの音がやんだ。あたりには、静かさがもどってきた。
「さあ、ひと休みするか」
「ええ。明るく、さっぱりした眺めに変わりましたね」
運転手と技師たちは汗をぬぐい、息をついた。その時、技師のひとりが、ちょっと首をふった。
「人の声がしたようだぜ」
「聞こえなかったがな。どんな声だ」
「なにか疲れはて、あきらめ、長い眠りに入るような、ため息に似た声みたいだった。そら耳だろうな」
「陽に当りすぎたせいじゃないか」
「ああ、暑さのせいだろう。いま埋めた井戸のあたりからだったが、そんな音がするはずもないものな」
声は、もはや聞こえなかった。それからみなの話題は、やがて道路が完成して、トラックやスポーツカーなどが、高速で行きかう日のことのほうに移っていった。