「夢のなかで遊んでいるような気分。あのような快楽の|園《その》が、この世の中にあったとは」
「いい女たちがそろっている」
「顔やスタイルばかりでなく、男性にとっては、あの従順さがたまらなくうれしい」
「あのすなおさ。いまどき珍しい。ふしぎなくらいだ」
「こっちがどんな要求をしても、いやな顔ひとつせず、喜んで応じてくれる」
「あのほうのサービスがすごい。なんといったらいいか、まるで……」
「なんと形容したらいいかな。心がとろけてゆくようだ」
「静かななかに強烈さがある。心が現実に吸われてゆくようだ」
「あんな満足感はめったに味わえない。満足感があまりに大きく、連日かようことなど、とてもできたものじゃない」
「なんとなくエキゾチックなムードがただよっている」
「神秘的なものを感じさせる。どこがどうとは指摘しにくいが」
「とにかく、すばらしいところなのだ」
これらが〈魅惑のお城〉についてのうわさだった。いや、ささやかれる言葉のなかには、もっとリアルで、聞く者をぞくっとさせる文句もたくさんある。また、すなおさや従順、ひかえ目なもの静かさ。そういった現代における宝石にめぐりあえた喜び、賛辞、感激などに重点をおいた言葉もある。
若い者であろうと、老年と称していい者であろうと、ひっこみ思案の人、陽気な人をとわず、そこを訪れた男たちは、このような感想を抱くのだった。各人それなりの、心からの満足を味わう。
そして、それは夢のなかのものでも、ただのあこがれの幻の城でもなく、実在のもの。実在でなかったら、こうまでささやきの波紋のひろがるはずがない。
警察のなか、その中年の刑事も、これらのうわさを耳にしていた。非合法の売春組織にちがいない。職業柄、彼がそう考えるのも当然のことだった。いずれは警察として、手入れをすることになるんだろうな。その時は、おれも動員されることだろう。
しかし、何ヵ月かがたったが、警察は動きはじめようとしなかった。そのきっかけがなかったためでもある。被害の訴えがまるでなかった。なんらかの被害届があれば、捜査にとりかかることができるのだが。
たとえば、友人にさそわれて遊びにいったはいいが、そこでひどい目にあった。あるいは、楽しい思いはしたのだが、大金を請求されて身ぐるみはがれた。そういった犯罪に関連した届はひとつもない。
うわさすらなかった。行ってみたがもてなかった、その腹いせに、やつ当りめいた密告電話を警察にかけてくる。普通だとそんな例があるはずなのだが、こと〈魅惑のお城〉に関しては、それすらない。どんなみにくい男ももてるのだろうか。ひとつぐらい例外はありそうなものだが。
新聞がとりあげてくれれば、それでもいい。そうなれば警察としても乗り出しやすい。だが、これに関連した記事はのらなかった。大げさに書き立てるのが好きな週刊誌にとって、こんないい話題はないはずなのだが、それにものらなかった。
取材のために潜入した記者はあったのだろうが、〈魅惑のお城〉のとりこになったのかもしれない。あるいは、このようなすばらしいものを暴露し、社会問題となって営業停止になったりしたら、全男性のうらみを買う。第一、自分も行けなくなる。そんな心境になることもあるだろう。いずれにせよ、報道されることはなかった。
営業をやっているからには、利益があがっているはずだ。税金はどうなっているのだろう。税務署から脱税の容疑で捜査への協力依頼があれば、警察も動きはじめる。しかし、それもなかった。税務署の係官が調べに出かけ、やはりそこのとりこになってしまったのかもしれなかった。
というわけで、〈魅惑のお城〉についてのうわさは、男だけの秘密として保たれていた。こんなことをわざわざ女性に報告する男はいないのだろう。婦人団体がさわぎたてるけはいもない。
その中年の刑事は、依然としてこれへの行動をとれないでいた。上からの命令もなく、なんのきっかけもないのに「魅惑の城の手入れをやりましょう」と申し出るのもためらわれた。それに、つまらぬ犯罪事件の処理で、毎日が忙しくもあった。
だからその刑事としては、時たま耳に入るうわさをつなぎあわせ、ひまをみて、ひとりであれこれ想像してみる以外になかった。そのたびごとに、行ってみたいとの誘惑におそわれ、はっとして冷静さをとりもどす。
いったい〈魅惑のお城〉は、どうしてああ評判がいいのだろう。男のいうままになる女たちばかりだという。どうやってそんな性質に仕立てるのだろう。おどかしてだろうか。それだったら、つらさにたえかね警察にかけこむ女があってもいい。麻薬でつなぎとめているのだろうか。だが、その仮定もしっくりしない。このところ、大量の麻薬が動いているという情報はなかった。催眠術のたぐいかもしれないが、そうまで完全にゆくものだろうか。
まあ、妥当なところは金の力だろうな。金銭という万能の力は、たいていのことを可能にする。金の欲しい女たちなら、そのためにサービスに熱中することも考えられる。しかし、この仮定もちょっとおかしかった。その報酬の金は、お客にしわ寄せされることになり、時には高いと文句をつけるやつがあらわれるはずだ。
しかし、そんなうわさも聞いたことがない。その赤字を埋める金を、だれかが出しているのだろうか。ばかばかしい。そんなもの好きな人間の、いるわけがない。
考えているうちに、刑事はいつもいらいらしてくる。彼の心のなかで、想像は疑惑となり、それは好奇心に変化し高まってゆくのだった。この目でたしかめてみたいものだな。どんなところなんだろう。うわさ通りなら、快楽にみちた胸のときめく夢のような国なんだろうな。男のいいなりになる、従順な女たちばかりが待っている……。
心のいらいらは消えるが、刑事は自分の口もとがだらしなく笑いかけているのに気づき、あわててしまう。同僚に見られたら、恥ずかしいことだ。中年男のいやらしい笑いぐらい、警察関係者の表情としてふさわしからぬものはない。
おれは刑事なのだ。しかし、〈魅惑のお城〉についての夢想を、頭からすっかり追い出してしまうことは不可能だった。好奇心がそれ以上に育つのを押えることもできなかった。そして、それはさらに大きくなり、行ってみたいとの衝動が、刑事であるという立場の自制心を、ついに越えてしまった。
行ってみよう。しかし、彼はいちおうの理屈づけをし、自分自身に弁解した。これは調査なのだ。将来の手入れの時のために、ようすを知っておくほうがいい。べつにやましい行動ではない。とはいうものの、やましさはいくらかあった。
その中年の刑事は派手なネクタイを買った。地味な私服とどこかちぐはぐだったが、警察関係者らしいにおいはいくらか消えた。
また、身分を証明するものは、なにひとつ身につけなかった。万一、変なことに巻きこまれたにしても、でたらめな名を告げれば、それですむだろう。つとめ先を質問されたら、それも適当に答えておこう。長いあいだ警察の仕事をしていると、わけのわからない職業の連中についての知識だけは、けっこうふえる。そのたぐいの一つをあげれば、相手もなっとくするはずだ。
その刑事は、仕事から解放された夜には、そのような外見と内心とで街を歩きまわるのが習慣となった。しかし、どう歩けばその〈魅惑のお城〉に行きつけるのか、まるで知らないでいる自分にあらためて気づいた。
職務の上で、社会の裏についての情報ルートを彼は知っていた。しかし、今回はそれにたよれなかった。へたに聞いたりしたら、〈魅惑のお城〉のほうに連絡され、警戒されかねない。あるいは、しくまれた|罠《わな》にはまり、こっちの弱味をにぎられることになりかねない。これに関しては警察をはなれた個人として、自分の力でたどりつかなければならないのだった。
その刑事は夜ごと、あてもなく街を歩いた。都会とは森のようなものだな。もしかしたら、魔法の森かもしれない。この森にふみこんだ者は、もはや出ることができず、一生そのなかをさまよいつづける。なぜおれは、都会にいるのだろう。職務をはなれた行動のせいか、そんなことを彼はとくに強く感じた。そして、おれはグレーテルを連れていないヘンゼル。お菓子の家はどこにあるのだろう。
手がかりは、なかなかえられなかった。いったい〈魅惑のお城〉なんて、本当にあるのだろうか。実在するとしても、それは他人はだれでも行けるが、おれには決して行きつけない場所にあるんじゃないだろうか。魔法の森だったら、そんなこともありうるかもしれない。しかし、あきらめる気にもなれなかった。目に見えぬ誘惑の力は強かった。
そんなふうになって何日目の夜だったか、刑事はある小さなバーで飲んでいた。そうおそくはない時刻。なんのあてもなしに入った店だったが、その彼の耳に、待ち望んでいた言葉が聞えてきた。
「あーあ、きょうは会社でいやなことがあったな。魅惑のお城へ寄って気ばらしをしたい気分だな」
そっちを見ると、つぶやきの主は会社員らしい若い男だった。しめた、なんという幸運。刑事は話しかけようかと思ったが、しばらくがまんした。あれこれ質問したら、へんに警戒されるかもしれない。また、こっちの身分を見抜いた上での、聞えよがしの言葉かもしれないではないか。
それとなく観察してみたが、そんな計略でもなさそうだった。警察生活によって、それを見きわめる感覚を彼は持っていた。つぶやきをもらした青年はグラスの酒を飲みほして立ちあがり、バーから出ていった。刑事もまた、そのあとにつづいた。あとをつけて行けば〈魅惑のお城〉にたどりつけるのだ。さとられぬよう尾行するのは、彼にとってお手のものだった。
見うしなったら大変。このスゴロクの上りはどこだろう。
それは郊外の静かな林のなかにあった。なんということもない、古びた洋風の建物。毒々しい原色のネオンもついていなければ、安っぽい音楽も響いてこなかった。はたしてこれがあこがれていた〈魅惑のお城〉なのだろうか、刑事は判定しかねた。しかし、青年はそのなかへと入っていった。
刑事はしばらく考える。だが、考えてみても結論の出ることではない。ここまで来たら、進んでみる以外にない。入口に行き、ドアをノックする。無表情な男が出てきた。刑事は言ってみた。
「はじめてなんだが、いいかい」
「どうぞ、どうぞ。いらっしゃいませ。ご常連になられたかただって、最初はどなたもはじめてだったわけでございます。お入り下さい」
理屈なのか冗談なのかわからない言葉を、男はにこりともせず言った。水商売になれているようにも見えず、暴力団らしくもなく、といってビジネスマン風でもない。刑事の勘をもってしても見当がつかなかった。しかし、べつにこっちを警戒するようなようすでもなかった。金があるのかないのか値ぶみをする目つきでもない。刑事はちょっと張合い抜けがし、言うべき言葉に迷った。
「さて……」
「どのような女性をお好みで……」
「どんなのでもいいよ」
「しかし、やはり若い女性のほうがよろしいわけでございましょう」
「まあね」
「では、どうぞこちらへ……」
地下へおりる階段があった。それをおりながら、刑事はひとりうなずいた。なるほど、地下というわけか。地上の建物が小さく目立たなくても、これならさしつかえないわけだな。といって、地下に部屋がどれくらいあるのか、〈魅惑のお城〉がここのほかにもあるのか、そこまではわからなかった。まあ、いい。それは機会があればあとで調べることもできるだろう。
しかし、そのような職業意識につながった思考も、そうはつづかなかった。うすものをまとっただけの若い女たちが、廊下を歩いている。静かな歩きかただが、それがかえって魅力的だった。彼はぞくっとした。
女たちがうすものをまとっているということは、あたりが温かいことを意味している。温かすぎるほどだった。刑事は汗をぬぐった。また、甘くなやましげな香水の|匂《にお》いがただよっている。匂いすぎるほどだった。むっとするほど刺激的だった。
たしかに魅惑の城だなと、彼は満足した。南国の王宮の、ハレムを連想させるような模様が廊下の壁に描かれてある。女のなかには、外国人らしいのもいる。エキゾチックな印象とは、このムードのことだったのだな。廊下のところどころには、熱帯の花の鉢植えがおかれてある。その花もかおりが高く、香水のにおいとまざって、はじめての者には息苦しさを感じさせるほどだ。その空気は緊張をほぐし、情欲を高めてくれる。
刑事は小さな部屋に案内された。清潔なダブルベッドがある。かくしカメラかマイクのたぐいがあるかと気にし、そのへんを調べてみたがなにもなかった。
彼はベッドの上に横たわり、そばの照明をうす暗くして待った。これから起ることへの期待で、しぜんと胸がときめいてくる。彼は刑事ではあるが、ただの男でもある。しばらくの時が流れ、やがて女が入ってきた。ほの暗いなかでゆれるうすものが、きれいなクラゲのように見えた。
それからのことは、刑事が以前から聞いていたうわさを、すべて事実をもって証明してくれた。ただの証明でなく、うわさ以上にすばらしいことを知らされた。何回も夢ではないかと思ったが、決してそうではなかった。
夢ならば終ったあとにはかなさが残る。しかし、これは夢ではない。こころよい満足感が刑事のからだのなかで、|余《よ》|韻《いん》のようにいつまでもつづいた。いちおう|陶《とう》|酔《すい》からさめ、彼は言った。満足感が大きかっただけに、料金のことが気になってくる。
「で、ここの代金のことだが……」
「おこころざしでけっこうなの。いくらでもいいということなのよ」
女が答えた。これもうわさの通りだった。料金をめぐってのいざこざも起らないはずだ。これは営業政策のひとつなのだろうか。そう言われると、かえって奮発したくなるお客がいるのかもしれない。だが、女の口調からはそんな感じを受けなかった。刑事は財布から何枚かの紙幣を出して渡した。
「では、これくらいでもいいのかな。不足だったら、そう言ってほしい。なにしろ、ここははじめてなので……」
「いいえ、これでけっこうよ。またいらっしゃっていただくほうが、うれしいの。どうもありがとう」
刑事はふと首をかしげた。紙幣をかぞえもしない女の無欲さ、そのことのせいだけではなかった。女の声に聞きおぼえがあるように思えたからだ。いつ、どこで会った女かまでは思い出せないが。
彼はスイッチをひねり、照明をあかるくした。女の顔がよく見えた。ちょっと厚化粧ぎみだったが、良質の化粧品を使っているせいか、不快さはまったくなかった。
何秒か見つめ、刑事ははっきり思い出した。だいぶ前だったが、警察で家出の少女を保護したことがあった。その時、刑事はその話し相手を担当した。いま目の前にいるのが、その女だった。
「前にどこかで会ったような気がしないかい」
「さあ、わからないわ」
「わたしにおぼえはないかい」
警察でとは言わなかった。きょうは個人としてやってきたのだ。忘れててくれたのなら、ありがたい。ここで思い出されたら、口どめ料を追加しなければならないだろう。
「あたし、おぼえてないわ」
女が言った。本当にそうらしかった。しかし、刑事のほうは、あの時の女と同一人だとの確信をますます強くした。なにしろ自分で相手をしたのだし、女の首すじのホクロまでおぼえている。それにしても、あの時はずいぶん反抗的な女だったが、いまは従順そのものだ。どうしてこうも性格が変ったのだろう。
記憶を消し、性格を変える。やはり特殊な催眠術のたぐいなのだろうか。家出女をつかまえ、このように仕立ててしまう組織だとしたら、かわいそうなものだな。以前に保護した時、もっと熱を入れて説得しておけば、この女もこんなふうにはならなかっただろうに。暗くてわからなかったとはいえ、自分がベッドをともにしてしまうとは、皮肉なものだ。刑事は複雑な思いで、ぼんやりと女を見つめていた。こうむかいあっていると、あの時とそっくり……。
回想しながら、刑事ははっとした。あの時とそっくり。そのことが彼を驚かしたのだ。この女、あの時そのままの若さではないか。少しもとしをとっていない。
「きみはいくつなんだい」
「あら、としのことなんか聞くものじゃなくてよ……」
女は静かに答えた。こんな商売をしていたら肉体のおとろえも早いだろうに、これはどういうことなのだろう。刑事の頭のなかを、ねむり姫の物語の荒筋が通り抜けていった。長い年月を眠り、そのままの若さでめざめた姫の話。しかし、それ以上に想像はのびなかった。
刑事は女といくらか会話をかわした。
「ここに、女の子はたくさんいるのかい」
「ええ」
「みんなどこから来たんだい」
「知らないわ。ひとのことなんか、どうでもいいの」
「ここで働いているの、楽しいかい」
「ええ、楽しいわ」
「ほかに、どんな楽しみがあるんだね」
「ここで働いていることが楽しいのよ」
「そういう人生を後悔しないのかね」
「人生だなんて、そんなむずかしいことわかんないわ……」
刑事はそのへんで話をやめた。くどく聞くと変に思われるだろうし、会話はいっこうに進展しなかった。しばらくの沈黙。
「ちょっと失礼するわ」
と言い、女は部屋を出ていった。受取った金をしまいに行くのかもしれなかった。
刑事はひとりベッドにねそべり、また、あれこれ考えはじめた。ここはふしぎなところだ。女たちは楽しんでおり、お客たちも楽しむ。それならいいとはいえるが、どうしてこれが成り立っているんだろう。
どうやって女たちを、ここに集めたんだろう。外国の女らしいのもいる。笛吹き男という童話が、彼の頭のなかで花火のようにきらめいた。むかし、ハンメルンという町がふえすぎたネズミで困っている時、笛吹き男がやってきて、その退治をひきうけた。しかし、それをやったのに町の人は代金を払わない。そこでかわりに、笛の音で子供たちを連れていってしまったという。そのたぐいの笛で、女だけを集めるという方法は……。
温かく香水のただようなかで、ベッドにねそべっていると、空想的なほうにひろがる一方。こんなことではいけない。やっとここへ入れたのだ。さぐるだけはさぐらなくては。刑事は服をつけて廊下へ出た。
迷路のような廊下を、彼はさまようように歩いた。うすものの女たちとすれちがう。快楽からさめやらぬ表情のお客の男もいた。だが、わざとらしい|嬌声《きょうせい》はなく、静かだった。
鉢植えの植物のひとつにかくれて、立入禁止と書かれたドアがあった。職業柄、彼はそれを目ざとく見つけた。また職業と無関係に、その文字は彼の好奇心をかきたてた。細目にあけてのぞくと、だれもいない。刑事はそこに入った。
早くいえば、美容院を思わせる部屋だった。鏡があり、椅子があり、化粧品がたくさん並んでいる。男性にはなんに使うのかわからない、化粧用の道具らしきものもあった。それらにまざって、どういうわけなのか、テープレコーダーがある。彼はなにげなくボタンを押した。
ドラムの音が流れだした。いくつかの打楽器の合奏、ほかの楽器は加わっていない。異様な音、|妖《あや》しげなリズム。それが単調にかなでられ、ゆっくりとくりかえされ、なにかに呼びかけ、よびさますようにくりかえされ、くりかえされ……。
「あまり魅力的な音楽じゃないな。ここにふさわしくない……」
彼がそうつぶやいた時、その部屋のもうひとつのドアが開いた。そして、入ってきたものがあった。刑事は一瞬、それがなんであるのかわからなかった。いや、目で理解はできたのだが、信じられるものではなかった。
泥まみれの女。身にまとっているものは、ぼろぼろの布きれ。乱れた髪。鼻をつくいやなにおい。それがなんのにおいか、彼は知っている。死のにおい。刑事だから、それになれてもいる。そのにおいに接しても、とくにあわてはしない。しかし、それがこういうふうに出現するとは……。
それはおかしな歩きかたで、さらに近づいてきた。彼は足がふるえ、動けない。声も出ない。手が反射的に動き、そいつを横にはらった。そいつはよろめいて倒れた。コードが抜けたのか、テープの音楽がとまった。そいつは床に崩れるように横になり、動かなくなった。
さわった時の手の感触が、神経を伝わって刑事の頭へとどいた。つめたく、ひやりとする感触だった。死の感触。彼は悲鳴をあげ、しゃがみこむ。
その悲鳴を聞きつけてか、ひとりの男が部屋に入ってきた。色の浅黒い、どこか熱帯地方の人のような印象を与える。どこかおかしなアクセントの口調で言った。
「困りますね。この部屋にお入りになっては。もっとも、鍵をかけ忘れたようだ……」
「すみません。ねぼけたのです。しかし、そんなことより、こ、この女はなんなのです。まるで、死、死……」
刑事は口ごもり、男はうなずいた。
「その通りです」
「では、死者。しかし、これは歩いてきたんですよ。なにかの冗談でしょう」
「ご存知ないようですな。ゾンビーのことを……」
「そ、それはなんのことです」
と刑事は聞きながら、床に横たわるものを横目で見た。男はそれに白い布をかぶせながら言った。
「ブーズー教ですよ。カリブ海の西インド諸島一帯の土俗的な宗教。そのなかに死者をよみがえらせる秘術がある。わたしはそれをきわめ、わがものとした。そのリズムがそうです……」
男はレコーダーを指さした。
「……そのリズム。その共鳴によって埋葬された死者は墓場から起きあがり、土をかきわけて地上へ出て行き、音のところへやってくる。それがすなわちゾンビーです。動く死者とでもいいますか。わたしはその女のゾンビーたちのよごれを落し、きれいにしてやる。死のにおいを香水で消し、部屋の温度を高めて、つめたさをなくす。時にはコンタクトレンズとか義歯とか、いろいろと手を加えることもある。それでできあがり、あとはわたしの|呪《じゅ》|文《もん》により、命ずるままに働きつづける。こういうわけなのです」
「すると、ここの女たちはみな……」
「そういうことですな」
呪術者の男は、こともなげに言う。極端な不快感が、刑事のからだをふるえさせた。なぜだか、汗がどっと出た。彼はなにかを叫んで、すべてを忘れてしまいたかった。
「なんということを。許せない……」
しかし、呪術者は落着いた口調。
「なぜです。どこがいけないのでしょう。わたしがよみがえらせた死者は、若い女性がほとんど。いいですか、人生の楽しさを知らずに死んだ女たちですよ。死んでも死にきれないでしょう。快楽、わたしはそれを与えてやっているのです。また、ここへ来る男のお客さまも、みんな喜んで下さる。ただ私利私欲のためだけでやっているのではない。だから料金も安いのです。いいじゃありませんか」
「しかし、いくらなんでも、生きている人間と死者とを……」
「そうおっしゃるが、ここへいらっしゃるお客さまたち、なかば死んでいるようなものじゃないでしょうか。自分の意志を完全に発揮することなく、だれもかれも上の者の呪文の命ずるままに、一日を動きつづけている。ここの女ゾンビーたちと、どこがちがいます。なかば死んでいる男たちと、なかばよみがえった死者の女たち。悪くない組合せといえるんじゃ……」
呪術者はしゃべっていたが、刑事の頭は|呆《ぼう》|然《ぜん》とし、議論に発展はしなかった。
「こんな大それたことが、よくいままで秘密に……」
「ブーズー教の秘法には、|呪《のろ》いの人形で殺す術もある。このほうはご存知でしょうか。ロウをこねて作った人形のなかに、その人物の爪なり髪の毛なりを入れる。それに針を突きさせば、当人がどこにいようとたちまち死にます。注意人物らしきお客さまからは、ここでお遊びいただいているあいだに、その髪の毛を少しとりあげておく。だから、ここの秘密をなにかかぎつけたかたがあっても、そのことをお話しすると、口をつぐんで下さる。つまらないことを口外したら、針ですからね」
内情が報道されなかったのは、そのためだったのか。なにが魅惑の城だ。刑事は吐きけを押えながら言った。
「あの女ゾンビーたち、いつまでああ働いていられるのだ」
「ずっとですよ。死者はとしをとらない。いつまでもああなのです。ご存知かどうかしりませんが、ゾンビーにとってのタブーは塩です。一回だけですが、お客さまのなかで塩の錠剤を口うつしに飲ませたかたがあった。ゾンビーはたちまち、どろどろの死体。そのお客さま、発狂してしまいましてね。これは例外中の例外の事件です」
「吸血鬼におけるニンニクのようなものか。吸血鬼は血を吸うことで生きてゆくが、ここのゾンビーたちの栄養物はなんなのだ」
「つまりですな、男性の性的分泌物。女ゾンビーたちがすなおなのは、わたしの命令のせいもあるが、本人たちがその栄養物を求めているからでもあるわけです。うまくできてるじゃありませんか。だから彼女たち、ここで働いているからには、いつまでも若い。もっとも、呪術者であるわたしが死ねばべつですよ。だいぶ先のことでしょうが、その時のことを想像すると、わたしも心が痛む。みな、たちまち死者に戻り、ここも終りです。お客さまも驚かれるでしょうし……」
呪術者のしゃべるのを聞きながら、刑事は考えた。こうなにもかも説明してくれるということは、おれの髪の毛もさっき取られてしまったのかもしれない。そうなったら、おれは命をこいつににぎられてしまうことになる。口外しかけたら、すぐ針をさされるのだろう。
しかし、まだ人形は作られていないのじゃないだろうか。いまのうちだ。いま、この呪術者を殺してしまえば……。
それは刑事としての職務に反することだが、この異様さを社会から除くほうが、もっと大きな義務だ。それに、正当防衛だ。彼は飛びかかる。しかし、呪術者は身をかわし、口笛を吹いた。それに応じ、ドアから数名の男が入ってきて、強い力でたちまち彼をとり押えた。呪術者は言う。
「こいつらは男ゾンビーです。力が強い。あばれてもむだですよ」
「おれをどうするつもりだ」
「あなたはきわめて危険人物のようだ。さっきからの口のききかたから、警察関係者と思える。このままおかえしすると、人形の呪いによる死をも恐れず、事情をよそでしゃべりかねない。それは困るのです……」
呪術者は鋭いナイフを持ってきた。
「おれを殺すのか」
「そうせざるをえないようです。しかし、そう心配することはありませんよ。あのドラムのリズムにより、すぐよみがえらせてあげます。もっとも、これまでの記憶はすべて消え、わたしの呪文による命令どおりに動くようになりますがね。だが、いままでよりいいんじゃありませんかね。よけいなことを考えないでいいわけです。それに、これ以上としをとることもない」
刑事は青ざめながら思った。さっきベッドをともにした女との会話、そのなかでの不審な点が、やっと理解できた。しかし、いまになってわかってみても……。
「おれをゾンビーにして、なんにこき使うつもりだ。ここの門番や用心棒にか」
「じつはね、魅惑のお城の、ご婦人むけのを作ろうかと思っているんですよ。そこで働いていただく。この点だって、いままでの人生より、ずっといいと思いますがね」