ある平日の朝、例のごとく出勤しようと家を出た彼は、そこに若い女性が立っているのを目にした。スタイルのいいちょっとした美人だった。その女は、そこにずっと待っていたというのではなく、通りがかりに足をとめたという感じだった。彼女は青年にむかい、あいさつなのか首をかしげたのか判断しにくいような身ぶりをし、こう声をかけてきた。
「あの、おたくにミドンさんはおいででしょうか」
「え……」
青年は軽く驚きの声をあげ、女をみつめなおした。なぜこんな美人が、おれに声をかけてくれたのだろう。わけを知りたいな。ミドンさんか。おれに話しかけるきっかけに思いついたのだろうが、それにしても変な名前だな。そんな彼の内心におかまいなく、女はまた言った。
「ミドンさんをご存知でしょうか」
「それより、なんでそんな人をさがしているんですか」
「なにか心当りがおありのような口ぶりですのね。ミドンさんについて、なにかご存知なんでしょ」
女は青年のほうに、一歩ちかづいた。香水のかおりがかすかにした。青年は言う。
「そういうわけじゃありませんが、ミドンだなんて、妙な名前で面白いじゃありませんか。それは名前なんですか、姓のほうなんですか。やはり外人なんでしょうね。男の人でしょうか、それとも女の人。いくつぐらいの年齢の人ですか」
「さあ、なんとも申し上げられませんわ。ニックネームかもしれないし」
と女は青年の顔を見つめながら答えた。
「ニックネームとしたら、必ずしも外人とはいえないわけですな。雲をつかむような話だな」
「でも、さがさなければならないんですもの。なんとしてでも。その人が見つからないと、困ってしまうんですの。なんとかならないかしら……」
女はつぶやくような口調とともに、ため息をもらした。悲しさや疲労が一瞬だけだが表情にあらわれて消え、本当に困りきっているようすだった。
「しかし、なぜ、そんなに熱心にさがしておいでなんです……」
と青年は聞いた。
「その人に、どんなご用があるんです」
との質問もしてみた。いちおうの美人、男たちが彼女を追いまわすのならわかるが、これでは逆みたいだ。
しかし、女は答えなかった。だまって青年の顔を見つめつづけ、表情のかすかな変化をも見のがすまいとしているよう。青年は変な気分になった。彼は出勤時間におくれかけているのに気づき、立ち去ることにした。
「では、これで……」
しばらく歩いてふりむくと、女はまだそこに立って青年のほうをながめていた。彼は思う。どういうことなんだろうなあ。ミドンさんか。なにもので、あの女とどんな関係にあるんだろう。しかし、彼に見当のつくわけがない。おれをからかったのでもないような感じだったな。あの女のかんちがいか幻想だったんだろうな。しかし、時間がたつにつれ、彼はそのことを忘れてしまった。
つぎの日、青年が会社で机にむかっていると、電話がかかってきた。四十歳ぐらいの男の声で、こう言っている。
「ちょっとおうかがいしますが、あなた、ミドンさんについて、なにかご存知だとかで。じつは、それについて……」
「えっ、ミドンさんですって……」
青年は驚いて聞き返しながら、前日の若い女のことを思い出した。相手は勢いこむ。
「やっぱりご存知なんですね。ああ、よかった。ありがたい」
「まって下さい。まだ、知ってるなんて言ってませんよ……」
と青年は言いながら、きのう美人との会話の楽しさを引きのばすため、返答をぼかしたせいかなと思った。そのため、女は勝手に脈がありそうだとの印象を持ち、この電話の男に伝えたのだろうか。
「では、ご存知ない……」
相手の声は落胆した口調になった。しかし青年は、それに対しても否定せずに言った。
「いったい、どういうことなのです」
「つまりですな。ミドンさんをぜがひでもさがさなければならないんです。それも、早ければ早いほどいいというわけなんですよ」
「どんな人物なんですか。あなたのおっしゃるミドンさんというのは……」
しかし、青年のその質問に対して、相手は満足な答えをしなかった。早くミドンさんをみつけたいという意味のことを、さまざまな表現でくりかえすばかり。それには熱意がこもっており、息づかいのような音も伝わってくる。だが、聞かされるほうはたまらない。青年はいいかげんで電話を切ってしまった。こんなことにつきあってはいられない。
しかし、ひとりになって時間を持てあましたりすると、青年の頭のなかに、ミドンさんの件が浮きあがってきてしまう。なんとなく気になってならない。そもそも、どんなやつなんだろう。ニックネームなのだろうか。手もとにある外国語の辞書をひいてみたが、それらしい意味の語はでていなかった。なにかの略語なのだろうか。その見当もつかなかった。どこかの小国の、耳なれない言葉なのだろうか。
「ミドンさん、ミドンさんか……」
青年は口のなかでつぶやいてみる。しかし、いくらくりかえしてみても、イメージは定まらなかった。女なのか男なのかも。
気になるという感情は、好奇心へと育っていった。最初に話しかけてきた若い女、さっきの電話の男、あいつら、なぜミドンさんをこう熱心にさがしているんだろう。青年はひまがあると、そのことを考えるようになった。気がつくと、その名を口のなかでころがしていたりする。ミドンさんは青年にとって、気分の上でだが、親しい存在になっていった。しかし現実には、彼はミドンさんについて、ひとかけらの知識もないのだ。つまり、この断層は大きくなる一方、彼はそれを持てあました。
知りたいという欲求は高まるばかり。もしこんど機会があったら、少しでもいいから聞き出したいものだ。
その機会は、三日ほどたつと訪れてきた。無意識のうちにミドンさんとつぶやきつづけながら、青年が帰宅しようと会社を出た時、身なりのいい老人が寄ってきて、彼に話しかけた。
「決してお手間はとらせません、ちょっとお話が……」
「なんでしょうか」
「うわさによると、あなたはミドンさんに関して、なにかお知りだそうで……」
またもミドンさんについてだ。しかし、先日の電話の声の人とはちがうようだ。青年は足をとめ、にっこりした。うまくいけば、なにか新知識がえられるかもしれない。青年は言う。
「知ってたらどうだとおっしゃるのです」
「どこにいるのか、教えていただきたいのですよ。つまりですな、ミドンさんに会いたいのです。重要な件なのです」
「そんなに重要人物なんですかね。このあいだは、若い女の人からミドンさんの件で質問された。そのあとは四十歳ぐらいの男から、電話がかかってきた。あなたは、あの人たちとお知りあいなのですか」
「ええ、そうなんです。あの連中が困っているので、わたしも見るに見かねて、失礼なこととはわかっているんですが、口ぞえをする気になったのです。あんまりじらしたりせず、ミドンさんについてご存知のことを、教えてあげなさいよ。知っておいでなんでしょう」
「まあね……」
青年はあいまいな返事をし、事情の説明をするよう水をむけた。老人は急にうれしそうな表情になった。しかし、老人は青年の期待しているミドンさんとやらについての説明はせず、会えないと困る、会えればどんなにうれしいかをくりかえすばかり、知っている人に対して説明は不要と思ってるのだろう。青年は手で制しながら言った。
「早がってんは困りますよ。あなたがたのさがしているミドンさん、どんなかたなのです。それをうかがいたいものですね。人ちがいということだってあるかも……」
「いやいや、人ちがいなんてこと、あるわけがありません。そのミドンさんでいいんですよ。で、いまどこにいるんです。ミドンさんは」
「そうせかされても困ります。まあ、しばらく考えさせて下さい」
青年が言うと、老人は態度を変え、頭を下げてあやまった。
「そうでしょうな。そういうこともありましょう。ほかならぬミドンさんのことですものな。わたしのような年齢の者が、つい性急なことを言ってしまいました。としがいもなく、失礼しました。しかし、これもミドンさんに早く連絡をつけたいあまりのことです。ここのところをご了解していただきたいものです」
「ええ、それはわかりますよ」
「申しわけなくて、なんとおわびしたものか……」
「そう頭を下げることはありませんよ。じゃあ、また……」
青年は老人のそばをはなれた。そして、いささかがっかりした。うまくゆくかと思ったのだが、効果はあげられず、ミドンさんとやらについては、なにも聞き出せなかった。
そのため、青年の胸のなかの好奇心は、一段とその度を高めた。ミドンという人物は、なにものなんだろう。スパイ組織にでも関連しているのだろうか。暗号名ミドンというやつが、大事な情報を持ってどこかへ消えてしまった、あるいは約束のところへいくら待っても現われない。そこで仲間が大あわてで、さがしまわっている……。
しかし、この仮定はしっくりこなかった。あの若い女にしろ、いまの老人にしろ、いつかの電話の声の主にしろ、どう見てもスパイの一員といった感じではない。また、スパイなら冷静なはずだ。ミドンさんへの関心をああはっきり表情に出したりはしないはずだ。あの人たちに共通している点は、だれも善良そうだという点。
それと、共通点はもうひとつ。ミドンさんについての具体的な説明をしてくれないことだ。秘密にしておきたいのだろうか。しかし、早くさがし出したいのなら、手がかりをどんどん並べてもいいだろうに。となると、もしかしたら、あの連中もミドンさんという人物の姿や顔つきをよく知らないのじゃないだろうか。青年はなんとなくそう思った。だが、推理はそこで行きどまり。あとはさっぱりわからない。あの連中はなぜ、ミドンさんさがしにああも熱心なんだろう。
青年はもう、気になって気になってならない。いくらか不眠症にさえなった。頭を使うので食べ物の消化が悪いせいだろうか。もしかしたら夢のなかでミドンさんに会えるかもしれない。それを期待して早く眠ろうとすればするほど、ねむけは遠のいたりするのだった。変な夢にうなされることはあっても、ミドンさんの姿はない。夢のなかのミドンさんは、うしろのほうとか、物かげとか、霧のなかとか、いつも見えないところにいる。
彼は仕事も手につかなくなった。能率も落ちる。こんな状態がつづいたら健康にだってよくはないだろう。ミドンさん、ミドンさん。それについてなにか知ることができるのなら、かなりの代償を払ってもいいという気持ちにさえなった。
そして、青年は決心した。
その日は休日だった。午後、青年が自宅でぼんやりしていると、いつかの若い女がたずねてきた。彼の予期していたことであり、女の言うこともまた予期していたものだった。
「あなた、ミドンさんについて、やっぱりご存知なんですってね」
「まあね……」
と青年はうなずく。その発音に微妙な感情を含ませてみた。ただ気を持たせるだけでなく、きょうは思いついた作戦を進めてみるつもりだった。女は飛びはねたいようなようすで言った。
「うれしいわ。あたし最初から、そうじゃないかなって気がしてたの。このほっとした気分、どう形容したものかわからないわ。よろしくお願いしますわ。もしよろしかったら、少し時間は早いけど、どこかレストランででもお食事をしながら、ゆっくりお話をうかがおうかしら」
こいつらのミドンさんについての、いちずで純粋な執心、それに対して青年は|嫉《しっ》|妬《と》めいたものを感じるのだった。
女は青年を案内した。高級なレストランの予約された室で、料理もよく上等な酒が出た。女はずっとうれしげにほほえみつづけ、魅力的だった。内心の喜びを押えきれないらしい。青年もほどよく酔い、いい気分だった。やがて女が問題にふれる。
「で、ミドンさんのことなんですけど、いまどこにいらっしゃるの」
青年はユーモラスな口調で、予定の言葉を口にした。
「ここにいますよ。じつは、ぼくがそのミドンさんなんです」
ひとつの試みなのだ。すぐにでたらめと発覚するかもしれない。その時は、冗談ですよ、あなたのような美人と交際したかったからです、と訂正すればいい。そう怒られることもないだろう。べつに実害は与えていないのだし、ここの勘定を負担すれば、それですむはずだ。
そして、このでたらめがばれなかったら、この連中とミドンさんとの関係、事態の真相にいくらかは近よれるはずなのだ。青年は女の反応をそっと観察した。
女の表情がぱっと変った。目が大きく見開かれ、しばらくのあいだ意外さへの驚きを示していたが、つづいて喜びに変り、最後にほっとした感じに落着いた。肩からは緊張が消えてゆく。
「あら、あなたがミドンさんだったの。そうだとはぜんぜん知らなかったわ」
本当にうれしそうだった。長いあいだの思いがかなったというのか、苦労がむくわれたというのか、冬が去ったのを示す春風のような感情があらわれている。そのため、青年はもはや否定しきれない立場になってしまった。といって、だましたことでの良心のとがめは強くはなかった。ここで冗談だと否定したら、ふり出しに戻ってしまう。作戦はうまく進んでいるのだ。青年は言った。
「ご満足ですか」
「ええ、いうまでもないことですわ。ちょっとここでお待ちになっててね」
女は席を立ち、まもなく戻ってきた。電話をかけに行ってきたらしいと、まもなくわかった。そのうち、人びとがこの室へとやってきたのだ。いつか会った老人もいた。四十歳ぐらいの男、それは前に電話で聞いた声の主らしい。そのほか中年の婦人もいたし、少年もいた。女の同僚らしい女性も何人かやってきた。
レストランのボーイが、ふえた人数の席を作るためテーブルをひろげ、料理や酒の追加を運んできた。やってきた人たちは、青年に声をかける。
「あなたがミドンさんだったのですか。ほんとによかった。とるものもとりあえず飛んできました。じつは一時、さがすのをあきらめようかとさえ思ったんですよ」
といった意味のことを、口々に言うのだった。青年は内心、これは困ったことになりそうだなと感じた。こう人数がふえてくると、ここの払いも安くはないだろう。車代も出さねばならなくなるかもしれない。彼はおどおどした口調で言った。
「しかし、ぼくがあなたがたのおさがしになっているミドンさんと、はたして同一人なのかどうか、おたしかめになったらどうなんです」
この連中、ミドンさんの外見は知らなかったにしても、ミドンさん特有の性格や経歴を知っているはずだ。それを話しはじめるだろう。適当に聞いておき、どこか一個所で否定し、まちがいだったようですねと言えばいい。彼はそうしようと思ったのだが、みこみ通りには進展しなかった。
「あなたがご自分でおっしゃるのだから、ミドンさんにまちがいないじゃありませんか。疑ったりはしませんよ。さあ、まずお祝いの乾杯をしましょう」
老人が提案し、みなが賛成した。
「ミドンさん、ようこそ」
と言う。グラスがいっせいに傾く。お祝い気分がみなぎる。しかし、青年はどんな態度をとったらいいのか、とまどいつづける。ミドンさんになりすましてあげようにも、依然として事態はなにもわからないのだ。なんとなく不安になりながら、青年は言う。逆のほうからかまをかけてみよう。
「で、ぼくがミドンさんだったとしたら、どういうことになるのです」
「まあ、あわてることはありませんよ。もう急ぐことはなにもないんです。われわれはいままで、あなたをさがすために、あせったりせかせかした気分ですごしてきた。しかし、もはやその必要はない。まず、ゆっくりとお祝いをしてからにしましょう」
老人はボーイに命じ、特別な酒を持ってくるように命じた。それはそれぞれの前にくばられた。青年はいらいらしてきた。だんだん帰るきっかけを失いつつある。やけぎみになり、彼はその酒をすすりながら言った。
「早く本題に入ってくれませんかね。ぼくもそうのんきな身分じゃないんですよ」
「のんきな身分じゃないとおっしゃる。あなたはユーモアのある人だ。ミドンさん、あなたはまったくふしぎなかたですなあ」
どういうことなのだろう。青年は頭を働かそうとしたが、そうもいかなかった。頭のなかに、どこからともなくねむけがおしよせてきた。最初、彼はこのところの不眠症での寝不足がここで出てきたのかと思った。しかし、そうではないようだった。意志の力ではねのけられないようなねむけ。青年は気がつく。どうやら、いま飲んだ酒になにか薬がまざっていたのだろう。ほかの連中は、その酒にまだ手をつけていず、手をつけようともしない。
恐怖を覚えながら、彼はむりに目を開き、まわりを見まわす。これは|復讐《ふくしゅう》の儀式ではないかと思ったのだ。ミドンと名乗るやつが、こいつらになにかをした。そのしかえしなのだろうか。しかし、連中の表情に、そのたぐいの残酷さはなかった。それは安心していいように思われた。連中の表情に共通しているものは、これからはじまることへの期待。そんな感じなのだ。といって、これからどうなるのかは、まったく……。
「いったい、ぼくを、どうしようと……」
青年はそこまで言い、あとは口がもつれた。ねむけがからだじゅうに、急激にひろがっていったのだ。かすかに残っている彼の記憶によると、彼は両側から支えられ、そのレストランから出て車に乗せられたというところまで。車が走りだすと、その震動は青年の眠りを完全なものにしてしまった……。
……なにか背中にかたい感触をおぼえ、青年は寝がえりをうとうとした。そのとたん、彼は落下した。
恐怖がからだを走り抜けたが、たいしたことではないとすぐにわかった。落下したのは数十センチほど。彼は立ちあがり、あたりを見まわした。そして、自分が寝ていたのは公園のベンチであり、寝がえりとともに地面にころがり落ちたのだということを知った。
太陽が上から照っていた。腕時計をのぞいたが、針はとまっていた。なにげなくゼンマイを巻くと、その手ごたえで、あれからかなりの時間が過ぎたらしいと知った。つまり、少なくともゼンマイのほどけきってしまう時間が……。
あれからだ。酒で眠らされたまでのことを、青年は思い出した。あれから自分の身に、なにがおこったのだろう。服を調べる。あの時に着ていた服のままで、べつによごれてもいない。ポケットをひとつひとつ調べる。なくなった品はひとつもないようだった。紙入れのなかのものも、ちゃんとそろっている。彼は首をかしげながら、手を顔に当てる。ひげだけは時間の経過を示して、いくらか伸びていた。
青年はふらふらした足どりで歩きはじめた。薬品の作用が残っているのか、頭は少しぼんやりしていたが、空腹であることだけはたしかだった。まず、どこかでなにか食べることにしよう。
公園を出る。道にそった商店のショーウインドーをのぞきこむ時、彼はちょっとためらった。そこにうつる顔が自分のでなくなってしまっているのではないかとの不安だった。もしかしたら、ミドンさんとやらに変身しているのかもしれない。ガラスにうつる見しらぬ顔が、これがおまえの会いたがってた人物だぜと、にたりと笑ったりしたら、ふるえあがってしまうだろう。
しかし、そんなこともなかった。やはり見なれた自分の顔がうつっていた。安心感と、なにか不満めいたものを感じた。道のむこうから警官が歩いてくる。青年は思わず声をかけた。
「あの、ちょっと……」
しかし、彼はそれをすぐ反省した。この一連の事件を訴えようと思ったのだが、そんなことをしてなんになる。面白半分でミドンさんと自称したら、薬の入った酒で眠らされた。それだけのことなのだ。被害事実はなにもない。警察だって、どこまで本気で耳を傾けてくれるか、わかったものじゃない。変人あつかいされるのがおちだろう。まごまごしている彼に、警官は言った。
「なんでしょうか」
「あの、きょうは何曜日で何日でしょうか。そして、ここはどこ……」
青年は言い、その警官は世にも妙な表情をした。こんな質問をされたのははじめてだろう。しかし、質問の内容そのものに答えるのは容易だった。それを教えてくれた。
「どうもありがとう。助かりました」
青年はお礼を言う。あれから二十四時間ちかくたっていることと、ここが自宅からそう遠くない公園であることがわかった。彼は、なにか言いたげな警官をあとに歩き、途中で食事をし、自宅に帰りつく。
なにはともあれ、無事に帰宅できた。いちおう、ほっとすることができた。しかし、その安心感はしだいに消え、またも、いらだたしい気分が彼の心のなかで頭をもたげてきた。結局のところ、ミドンさんについては不明のままなのだ。しかも、それだけではない。あの意識を失っているあいだに、自分になにがおこったのか。なにかをされたにちがいない。あるいは、なにかをしたかだ。どう利用されたのか、まるでわからない不安。
青年はそれから何日か、テレビや新聞のニュースに敏感だった。とんでもないことに巻きこまれているのかもしれない。自分のモンタージュ写真が、それとともに出るかもしれない。
しかし、事件らしい事件はなにもなかった。といって、これで安心と断言はできない。新聞をにぎわすたぐいとは別の、なにかちがうことに利用されたのかもしれないのだ。|詐《さ》|欺《ぎ》とか、遺産相続とか、ろくでもない犯罪に。
一方、あの日を境に、女や老人などからの連絡はぴったりなくなった。あの連中、どこのだれだったかもわからず、なんの手がかりもない。酒を飲んだレストランをたずねてもみたが、いちいちお客の名をおぼえているわけがなかった。
いくら考えても、青年は理解に近づけず、想像もひろがらなかった。彼は満たされない内心を持てあまし、気分は沈みがちになり、その度はひどくなる一方だった。つとめ先で仕事しながら、時どきぼんやりする。それに気づいた同僚が言った。
「どうかしたんじゃないかい。以前にくらべ、ようすが変だよ。悩みごとがあるのなら事情を話してみないか。相談に乗るよ」
強くうながされ、青年は言った。
「あまりにばかげているんで、信用されないだろうし、笑われるだろうが、こうなんだ。じつは……」
そして、ミドンさんにまつわる一連のことを話した。ここで話しておけば、後日、この友人が証人としてなにかの役に立ってくれるかもしれない。彼はそう思い、好奇心からミドンさんを自称し、酒を飲まされて眠ったこと、そのあと自分の身になにが起ったのかわからず、気になってならないのだと、くわしく説明した。
「……というわけなんだ。いっそ警察へ訴えようかとも考えているのだが」
「それだけのことでは、警察は動いてくれないだろうな。しかし、それにしても興味ある話だな。真相を知りたくてならない気分に、ぼくまでなってきた……」
同僚は身を乗り出し、声を高めた。そのようすを見て、さらに何人も集まってきた。しかし、話を聞くと、だれも笑ったりはしなかった。事実を知りたくてならない好奇心が、それを上まわっているからだ。
みなが意見を出しあう。行きつくところはひとつだった。
「唯一の方法はだね。そのミドンさんなる人物をみつけだすことだ。そいつなら、すべてを知っているはずだ。それしかないよ。やつをさがそう。みんなで手伝うよ。とてもこのままでは落着かない。われわれ、心がけて聞いてまわり、情報を知らせあえば、いつかはさがしあてることができるんじゃないかな」
青年は言う。
「ありがとう。ぼくもそれ以外にないと思ってはいたんだ。しかし、ひとりではとてもむりだ。みなに手伝ってもらえるとは、こんなうれしいことはない」
「そう恐縮することはないよ。ぼくたちだって、知りたいことでもある。その好奇心で結ばれることにより、われわれの友情だっていっそう強いものになるかもしれないし……」
かくして、青年と同僚たちは、ミドンさんさがしをはじめることになった。なかなか楽しいことだった。さがしあてた日を夢みる毎日。その期待でつながった仲間。
仲間がふえたからといって、青年の決心が薄れるわけではない。ミドンさんというやつ、どこかにいるはずなんだ。必ずいる。なんとしてでもさがし出し、事情を聞き出さなければならない。まったく、こっちはいい迷惑だったのだ。いつの日か、きっとつかまえてやるとも。その時、ミドンさん、もったいぶったり、あれこれごまかそうとしたり、すなおに答えようとしないかもしれない。だが、おれは必ず聞き出すぞ。どんな方法でやるかな。そうだ、自白剤とかいう一種の睡眠薬をなんとか手に入れておこう。それを飲むと、当人は無意識状態でなにもかもしゃべるという作用があるという。ミドンさんを見つけたら、油断をさせて連れ出し、あらかじめみなと打合せておき、気づかれぬようそれを飲ませて……。