しかし、島に住む者たちのすべてが、楽しく毎日をすごしているというわけではなかった。もとからの島の住人たちは、まだよかった。田畑を持ち、家を持ち、船で漁業に出かけることもでき、生活に困ることはなかった。精神的にもゆとりがあった。
それにくらべ、あわれなのは|流《る》|人《にん》たちだった。江戸で犯罪をはたらいたやつら。死罪で首をはねられても仕方のないところ。しかし、特別の慈悲をもって、罪一等を減じられた。おさばきのあと、町奉行が言う。
「遠島を申しつける」
その一瞬は、心の底からほっとする。判決があってから船の出航までの期間は、|牢《ろう》内にとどめられる。準備がととのうと、手をしばられたまま、船底に押しこめられる。人数も多い。そして、ゆれつづける何日かの航海。分散させられて、島々に上陸させられる。ここで、やっとナワがほどかれるのだ。
といって、自由の身になったとはいえない。逃げようにも、周囲は海。生きるため、すなわち食を得るための、つらい努力の日々がはじまるのだ。いっそ死罪になっていたほうがよかったのではとさえ思う……。
流人たちは上陸の時、ひたいに字を書かれる。島の各村からやってきた名主たちは、その字を見て、何人かずつ自分のところへ引きとってゆく。物品のようなあつかいだった。もっとも、流人の多くは字が読めない。だから、おまえはどこの村への配属だといった|札《ふだ》を渡すなど、無意味といえた。
彼らはまず、前からいる流人たちの小屋にとめてもらう。それぞれ、島送りの時、奉行所からいくらかの米や銭をもらってはいる。しかし、そんなものはたちまち使いはたしてしまう。もっとも、親類や知人からもらった、まとまった量の米や金を持ってくることはみとめられている。だが、みな犯罪者たち。そんな余裕のある流人は、現実問題として、めったにいなかった。
島において、労働を強制させられることはなかった。しかし、なにもしないでいることは死につながる。食物が手に入らない。働かざるをえないのだった。
大工とか左官とかの腕に職のある者は、それをいかして仕事をする。読み書きのできる者は、名主の事務の手伝いをする。そして、わずかな食料をもらう。島に米はとぼしい。麦のぞうすいが主食。サツマイモの収穫期になると、それで飢えをしのぐ。空腹感はつねにつきまとっている。
手に職のない者は、もっとあわれだった。畑仕事や漁業の手伝いをする。島には小作農もいるが、流人はその下という地位だった。自分で作物を育てても、それを存分に口にすることができない。
また、漁業の手伝いといっても、海藻や貝の採取、魚を船から運ぶ、そんなたぐいの仕事だった。決して船に乗せてもらえない。かつて船上であばれ、船を奪って島から逃げようとした者があった。それ以来、警戒がきびしくなっている。
なにかの仕事をする体力のない連中は、さらに悲惨だった。村人や流人たちのあいだを、ものごいしてまわる。泣きつきながら食をねだり、それで一日一日を生きのびるのだ。凶作になると、流人へのほどこしは、まっさきにへらされる。不安の連続だった。
一方、あたりの風景は明るく、気候はいい。それが皮肉な対照を示していた。
「遠島を申しつける」
奉行は、それだけしか言い渡さない。何年間という期限もつかない。神妙にしていれば早く帰れるともつけ加えない。原則はあくまで終身刑なのだ。
完全な終身刑なら、それなりのあきらめや覚悟もつく。しかし、実際はそうでない。将軍家の慶事などがあると、何人かに赦免状がくる。また、ある年月をすごすと、奉行の裁量によるのだろう、許されて島から出てゆく者もある。すなわち、すべてお|上《かみ》のおぼしめし、気まぐれ。許される日のめどがつかないのだ。
一般の流人で四年、武士の流人で二十年、ほぼそんな見当なのだが、必ずしも確実ではない。流人たちはだれも、島へついてからの年月をかぞえつづけている。そんなことは意味がないのだ。しかし、そうは知りつつも、やはり、かぞえなければいられない。
忘れようとしても、江戸の町のにぎやかさが、頭のなかにあざやかに浮びあがってくる。思わず、つぶやきももれる。
「おれよりもっと悪いことをしたやつが、つかまることなく、江戸にはたくさんいるはずなのに……」
まったく、精神的に残酷な刑罰だった。それにたえかね、三年に一回ぐらいの割で、どこかの島で脱走さわぎがおこる。夜にまぎれ、船を奪って沖へこぎ出すのだ。しかし、ほとんど成功しない。島からの船に追われ、銃で殺される。黒潮を乗り切れなくて難破。幸運にも本土へたどりつけたとしても、そこでつかまって死罪。みずから死を選ぶ行為ともいえた。
そんな流人たちのなかで、良白だけはいくらかちがっていた。比較的、優雅な生活だった。彼は医師。島にとって貴重な存在で、治療の謝礼により、食物に困ることがなかった。また、いちおうの尊敬も受けていた。
良白はかつて、江戸でそれなりの腕をみとめられていた医師だった。気を静める作用のある薬草を知っており、それを秘法として、多くの患者をなおした。
その薬草をせんじて飲ませ、病人の心がやわらいだ時、やさしく話しかける。
「これで、あなたは楽になる。眠くなる。痛みを忘れる。苦しみは去ってゆく……」
それでなおるのが、けっこういた。
「あなたは、わたしの言う通りになる」
「はい……」
「あなたはこれから、元気になる……」
当時の医師たちは、それぞれ技術を秘伝としていた。だから、この療法は彼だけのものだった。
ある日、ある商店から呼ばれた。そこの嫁が、たびたび胃痛をおこす。それをなおしてくれとたのまれた。例の手当をやる。
「あなたは眠くなる。気が楽になる。わたしの言うことに従うようになる……」
「はい……」
医師への信頼感で、嫁はすなおな返事をした。
「あなたの胸のなかでつかえているものが、口から出てゆく。そのあと、さっぱりする。さあ、口から出してしまいなさい……」
そのとたん、嫁はしゃべりはじめた。
「もう、がまんできないんですの……」
亭主の女遊び、しゅうとめへの不満のあれこれ。それらについて、とめどなくはきだした。なにもかも話し終ると、ぐっすり眠り、やがて目がさめる。自分がなにを口にしたのかはおぼえていず、すっきりした気分だけが残る。
もはや胃痛は再発しない。良白は面目をほどこした、と言いたいところだが、不運というか、悪い結果になった。治療中の会話を、となりの部屋の家人に聞かれてしまったのだ。病人をキツネツキのような状態にさせた。一家の恥をなにもかもしゃべらせた。あやしげな医者だ。世をまどわす……。
そんな評判がいつしかひろがる。お上の耳にも入る。幕府は、世をまどわす行為とか新奇なものに対して、最も警戒する。捨ててはおけない。奉行所へ呼び出され、良白は言われた。
「遠島を申しつける」
危険人物であるというのが、その理由だった。島へ流してしまうことが、最良の解決。異議の申し立てなど許されない。
かくして、島へ送られてきた。ほかの流人たちと同様、最初の数カ月は、内心の苦悩との戦いのうちに過ぎていった。江戸での生活が忘れられない。夢に見る。しかし、目ざめての現実は、いつ帰れるのかわからない流人なのだ。
気をまぎらすために、食うために、医師の仕事をはじめた。島へ送られる時、彼はそれまでにかせいだいくらかの金と、薬草とを持ってきた。小屋をたて、そこで患者をみた。江戸での失敗にこり、治療中はだれも近づけないようにした。なおる患者が多く、生活はなんとかなった。
薬草をとかすために必要だと、酒を持ってこさせることもできた。しかし、酒の酔いも、いらだつ心をやわらげる役には立たなかった。
島へ送られてから八カ月ぐらいたったある日、良白のところへとどけ物があった。流人にむけて、江戸の者が食料や衣類などを送ることはみとめられている。なかみは、かなりの量のアズキだった。食べてもいいし、島の住人との交換品に使ってもいい。とにかくありがたかった。
しかし、その送り主の名に心当りがない。かつてなおした患者からかとも思ったが、その名は浮んでこなかった。ふしぎがりながら良白がアズキを容器へ移していると、なかから手紙が出てきた。
〈これは内密だが、おまえは遠からずご赦免になる。仕事にはげむように。島抜けをたくらんだり、水くみ女と深い仲になったりせぬように。だれにも話すな。返信は無用〉
そんな内容のものだった。どこまで信じていいのだろうか。そんなに早く許された前例など、聞いたことがない。しかし、文面にはそうある。こんな手のこんだいたずらをする者がいるとは思えない。だれからか不明だが、それだけになにか説得力もあった。彼はその指示をすなおに受け取ることにした。希望というものは、ないよりあったほうがいい。たとえ幻でも。
なお、水くみ女とは、島の住人の娘のこと。水がとぼしく、山からわき水をくんでくる仕事をやる。そのなかには、流人と仲よくなり、世帯を持つ者もあり、それは黙認されていた。流人の気持ちはいくらか、それでやわらげられるが、一方、許されて島から出る時、別離の悲痛を味わわなくてはならない。
良白はそれを避けるよう注意した。そのくせ、脱島の話には耳も貸さない。
「あいつは、この島に腰をすえるつもりなのだろうか。それなら、なぜ女と暮さない。まったく、医師には変り者が多い」
そんな評判をよそに、良白は仕事にはげんだ。島の住人ばかりでなく、流人の患者もみてやる。謝礼の払えそうにない者まで、親切にあつかってやった。
「あなたは楽になる。わたしを信用する」
「はい……」
「やまいは心の疲れからくる。言いたいことを口に出してしまいなさい。がまんするのはよくありません」
この療法しかできないのだった。
「おれなんかより悪いやつが、江戸にたくさんいる。そいつらは島に流されることなく、のうのう暮している。面白くない……」
「そうでしょう、そうでしょう。その気持ちはよくわかります。もっとお話しに……」
「このまま島でくちはてるのは、くやしい。おれは江戸で大金を盗んだ。あるところにかくしてある。取調べの時、おれは決してしゃべらなかった。十両ぬすめば首がとぶきまりだからな」
「それが、なぜ遠島に……」
「その金をひとりじめしようと、仲間がおれを密告しやがった。しかし、おれもそんな場合を考えて、そいつと打ち合せたのとちがう場所へかくしたというわけさ。江戸へ帰れたら、なんとかしかえしをし、豪遊もしたいが、こうからだが弱っては、その望みもむりなようだ」
「きっと戻れますよ、わたしより早く。ところで、そのかくし場所はどこです……」
病人は、夢うつつの状態でそれをしゃべった。めざめれば、その記憶はない。そして、まもなく死んでしまった。いままでは執念で生きてきた。しかし、内心のもやもやを口にしてしまうと、気力も消えた。治療が逆効果を示したといえるかもしれない。良白はその話を自分の胸にしまいこんだ。
やがて、船が島をおとずれた。江戸と島とをめぐる船は、約四カ月おきにやってくる。新しい流人たちを連れてくるし、また、島の特産品の江戸への出荷もやるのである。そして、許された流人を乗せて帰りもする。
良白は村の名主のところへ呼び出された。
「おまえに対し、ご赦免のしらせが来た。こんなに早いのは異例のことだが、文書にそうある。読みなおしてもまちがいはない」
「はあ……」
やはり、あの手紙の通りだった。良白はひとりうなずく。
「いやに平然としているな。夢ではないかと飛びあがって喜ぶかと思っていたのに。おまえは変り者だな」
当然のことながら、ほかの流人たちは、うらやましがり、くやしがった。
「なんだ、あいつ。このあいだ島に来たばかりだというのに、もう帰れる。どういうことだ。不公平だ」
やむをえず、名主は理屈をこじつけた。
「不平を言うな。お上のなさることに、まちがいはない。いいか、医師の良白は、島に来てから、まじめな生活をした。みなの病気をなおすために、損得ぬきでつくしてきた。わたしはそのことを、島奉行への報告書にしるした。そのためだ。だから、おまえたち、早く江戸へ戻りたいのなら、島抜けなど考えず、おとなしく働くのだ」
良白はみなに別れを告げ、船に乗る。
江戸へのその船のなかには、ご赦免になった男が、ほかに二人のっていた。よその島から戻されるところだった。話がかわされる。三十歳ぐらいの男に、良白は話しかけてみた。
「おたがいに、帰れてけっこうですな。わたしは医者でしたが、つまらんことで島へ流されましてね。で、あなたのご職業は……」
「わたしの名は菊次郎、役者でした。うまれつき、その方面にむいていたのでしょう。いろんな役を器用にこなしましたよ」
「それがなんで遠島に……」
「面白半分に、役人に変装してみた。つまり、武士になりすましてみたのです。いい気分でしたよ。大きな商店を順におとずれ、いかにも役人らしく尊大なあいさつをしてまわった。すると、下へもおかぬもてなし。そのうえ、金までくれた」
「役所に対し、なにかうしろ暗いところのある連中ですな」
「でしょうね。世の中には発覚しないでいる悪人が多い」
「やつらはあなたにおどされ、穏便にとそでの下をさし出した」
「とんでもない。おどしたりしませんよ。意味ありげにだまっていると、むこうが気をまわし、勝手に金を出したというわけです。こっちは、それをいただいただけ。役人だと名乗り、おどしたりしてたら、ふとどききわまると打首だったでしょう」
「軽くすんだわけは……」
「芝居の服装のまま買物に寄ったのだと申しひらきをしたからです。また、商店のほうも、大目に見てほしいからそでの下を出したとは言えない。金額がうやむや。世間をさわがせたとの理由で、遠島となったのです。それにしても、こんなに早く帰れるとは。少なくとも三年の島暮しは覚悟してたのに。すると、あの手紙は、やはり本物だったのだな……」
低い声のつぶやきとなるのを耳にし、良白は言った。
「なんのことですか。ここまでくれば、もう大丈夫。話して下さいよ。わたしにも思い当ることがあるのです」
「じつは、島にいる時、江戸からとどけ物があった。心当りのない人からです。手紙が入っていた。遠からずご赦免になるから、じたばたするなといった文面の。それをたよりに、なんとか生きてきたというわけです」
「食べ物はどうして手に入れました」
「芝居のまねごと、いや、身ぶりつきの物語といったものを考え出しました。ひとり何役でいそがしかった。物まねもやりましたよ。島ではだれもかれも、娯楽に飢えている。そんなわけで、なんとか食物にありつけましたよ。しかし、それにしても、あの手紙だけはふしぎでならない」
「それだったら、わたしも同様です。それと同じ手紙をもらいましたよ。他言するなと書いてありましたが、もうしゃべってもいいでしょう」
良白もそのことを告げた。すると、そばでだまっていた武士が口を出した。
「あなたがたもそうでしたか。じつは、わたしもそうなのです。そんな手紙の入ったとどけ物があった。しかし、武士の遠島は、そう簡単にご赦免にはならない。半信半疑ながらも、それに望みをつないで生きてきた。文字が書けるので、名主のところで文書を作る手伝いをし、また、寺子屋のようなものを開いて、子供たちを教えた。信用され、弓を作ることを許されたので、それで鳥をとり、食べたり売ったりしてすごしてきた。しかし、こう早く帰れるとはな……」
「おさむらいさんは、どんな罪で遠島になったのですか」
「わたしの名は、尾形忠三郎。ある|譜《ふ》|代《だい》大名の江戸屋敷につかえる者だった。若殿のお守役。武芸の指南などをしていた。街を見物なさる時などには、そのお供をした。つまり護衛係。ところがある日、ばくちをしてみたいと若殿が言い出した……」
「それはそれは」
「そこで、出入りの町人にたのんで、ある夜、案内してもらって出かけたのだ。そう面白い遊びではないな、あれは。まだ碁のほうがよろしい。若殿もそんなお気持ちのようだった。不自由なく育った若殿には、金を|賭《か》けて熱中する気分がおわかりにならぬ。今夜の一回だけでやめようと言われた。ところが、その時、不運なことに……」
「なにが起ったのです」
「町役人の手入れがあった。岡っ引たちがふみこんできた。表ざたになったら、お家の一大事。わたしは若殿に、早くお逃げ下さいと言い、灯を吹き消し、大乱闘をやった。しかし、相手は大ぜい。奉行所の与力も配下を連れて乗り込んできた。わたしは若殿の逃げたのを見きわめ、おとなしくつかまえられたというわけだ」
「お武家さんだったら、そんな時には切腹するんじゃ……」
「切腹とは、主君のためにするものなのだ。そこでそれをやったら、かえって主家に迷惑がおよぶ。あくまで、わたしひとりの行動だと主張しなければならない場面だ。もちろん、若殿のことはしゃべらなかった。お家のほうもあわてたらしい。日付をさかのぼらせて、わたしにひまを出したという形にした。つまり、ただの浪人のしわざ。岡っ引を投げ飛ばしはしたが、傷つけたわけじゃない。それと、ばくちの罪。で、遠島を申しわたされた」
「お家のために、罪をしょいこんだのですな。お武家さまとはつらいものですね」
「仕方ない。そういうものなのだ。まずはお家安泰だったが、この件の報告が上のほうに伝わったらしい。家臣への監督不行き届き。おかげで、殿は奏者番に任命されることに内定していたのだが、それがとりやめになってしまった」
「なんです、奏者番とは……」
「江戸城内で、儀式の時に各大名の世話をする重要な職だ。これをうまくつとめると、寺社奉行、さらに上の職へと昇進する。早くいえば、殿は幕府のいい役職につく道をとざされたというわけだ。お気の毒でならぬ」
「若殿のわがままのために……」
「いや、わたしがおとめしなかったのがいけなかったのだ」
「主家から島へのとどけものは……」
「なにもなかった。内心で同情はしても、公儀をはばかったのだろう。そのかわり、まったく名も知らぬ人から、ふしぎな手紙が来たというわけだ。あなたがたのように」
「いずれにせよ、われわれ、運よくご赦免になったのです。なにかの縁でしょう。江戸に帰ってからも、三人おたがいに助けあうことにいたしましょう」
「もちろん異議はない」
「手紙のなぞも、そのうちわかるでしょう」
船はぶじに江戸へつく。海から街をながめた時、三人はうれしさのあまり、涙ぐんだほどだった。なつかしい江戸に、いま、やっと帰れたのだ。
「おい、こっちへ来い。お奉行さまが、おまえらにお会いになるとのおおせだ」
町奉行所の一室に連れてゆかれた。取調べではないので、そばに書記役のたぐいはだれもいない。奉行はにこやかに言った。
「どのような気分か」
「申しあげるまでもありません。このように早く帰れたとは。まだ信じられません」
だれも同じ答えだった。
「あの手紙を見て、どう思ったか」
「半信半疑でございましたが、こうなってみて、本当だったとわかりました。しかし、お奉行さまが、なぜそれをご存知なので……」
「じつは、わたしが送ったのだ」
「ああ、なんという、ありがたいおなさけ。それは本当でございましょうね」
「そうだ。流人のご赦免の決定は、わたし以外にできない。その気になれば、いまここで、その取消しをすることだってできるのだぞ」
「なにとぞ、それだけはお許しを。もう、二度と島へ行きたくはありません。島の住人の同情にすがり、食いつないで生きる毎日。いいことはなにもない。思い出したくもない。どんな言いつけにも従いますから……」
「そうであろう。これからは、まじめに人生をすごすことだな」
「それは、よくわかっております。しかし、それだけではございませんでしょう。わたしたちだけに、これだけ特別のおはからいをなさったからには……」
「その通りだ」
うなずく町奉行に、三人は聞く。
「では、なにをしろと……」
「その前に聞くが、島の流人たちは、どんな気分で毎日をすごしておるのか」
「ご赦免の日を待ちつづけでございます。それと、自分たちよりもっと悪いことをしているやつがいるのに、そいつらは発覚せず、江戸でいい気になって暮している。そのことへのくやしさでございます」
「そうであろうな。世に悪人のたねはつきない。巧妙なやつもいる。奉行所もなんとかしようとつとめているが、網にかからぬのがいるのは、どうしようもない。そのことについては、わたしも悩んでいる」
「悪人はかならずつかまる。そんな世の中が一日も早く来るといい。島での生活で、それを痛感させられました」
「そこなのだ。そういう心境だと、話がしやすい。おまえらはそう悪事をはたらいたわけでない。また、どこかみどころがある。取調べの時から、わたしは目をつけていた。島でむだな人生をすごさせるのは惜しい。そこで、あのような手紙を出したのだ」
「お礼の申しようもございません。で、いったい、どのようなことをしろと……」
「つまり、巧みに法の網をのがれている連中を、あばいてほしいのだ。ひそかに役所の手先をつとめるということは、いやかもしれない。それならそれでいい。おまえたちを島へ戻し、かわりの者を作ることにする」
「やります、やります。ぜひ、やらせて下さい。江戸にいられるのでしたら、どんな苦労もいといません」
それは実感だった。島には生きがいがなく、変化がなく、まさに半分死んだも同様の日々。みな進んで引き受けた。
「では、よろしくたのむ。定期的に報告に来てくれ。しかし、この役所では人目もあることだし、さしさわりがある。わたしも小さいながら下屋敷を持っている。そっちのほうに来てくれ」
町奉行は連絡法を指示した。なお、下屋敷とは別宅のこと。江戸のはずれにあり、非番の日にはそこへ行って休養したり、友人を招いたりする。ある身分以上の者は、それを持っていた。
医師の良白、役者の菊次郎、もと武士の尾形忠三郎。その三人は長屋のひとつを借り、共同で生活をすることにした。とりあえず酒を買ってきて、祝杯をあげ、飲みながら話しあう。
「さて、これからどうしたものだろう。良白さんは、また医者をやりますか。食うための金はかせがなくてはならない」
「医者をやりたいが、わたしにできる療法はひとつしかない。薬草を飲ませて、内心のつかえをはき出させることだ。しかし、それをやると、また世をまどわすと訴えられかねない」
「困ったことですね」
「いや、待て。思い出した。島で、ある病人の手当をした。死んでしまったがね。そいつから、盗んだ金のかくし場所を聞いておいた。仲間に裏切られ密告され、それを使うことなく死ぬのが残念だと、くやしがっていた。そいつを出して使うとするか」
尾形忠三郎が口をはさむ。
「いや、それはよろしくない。その死者の身になってみろ。また、流人たちすべてのうらみがこもっている。もっと悪いやつらが、江戸でのうのうと暮していることについての。もし、われわれがその金を使ったら、いいむくいはないぞ」
菊次郎も賛成する。
「そういえば、そうです。また第一、これまでにして下さったお奉行さまの心にそむくことにもなる。金は奉行所に渡し、そのひどい相棒とやらを罰すべきです」
奉行所にそっと連絡すると、三日後に下屋敷へ来いとの返事があった。三人が出かけると、奉行が迎えた。くつろいだ平服姿。
「なにか報告があるとか……」
「はい。金のかくしてある場所をお知らせいたします。また、それを盗んだ犯人のひとりの名前も……」
良白は知っていることを話した。どこからどうやって盗まれた金かを。
町奉行はすぐに手配をする。金はちゃんと、そこにあった。また、犯人もとっつかまった。そいつは一時、江戸から逃げていたのだが、相棒が島で死んだと風のたよりに聞き、安心して舞い戻っていた。あっけなく逮捕された。
そいつは町奉行からこまかい点まで指摘されると、たちまち恐れ入った。処刑される。そして、三人にはほうびの金が渡された。それはかなりの額だった。思いがけない収入。またも祝杯をあげることになる。
「いい気分だな。これで、あの島で死んだやつの魂も救われるというものだ」
と良白が言い、ほかの二人もうなずく。
「それに、あのお奉行さまの話のわかること。やはり、信頼にはこたえるべきだな。ほうびもいただけたし」
「世のため、正義のためになにかをするというのは、すがすがしいものだな」
三人はめざめた。かつての流人とは思えないような変化。奉行のねらいも、みごとな効果をあげた。そもそも、この三人、根っからの悪人ではない。それが、わずかの期間だが島の生活によって、世の不公平を知り、いきどおりをいだいている。それがうまく軌道に乗ったのだ。
しばらくたった、ある日。菊次郎は美しい女がカゴで街を行くのを見た。あか抜けした女。なにかありそうだと感じ、あとをつけた。一軒の小さな家のなかに入っていった。商店の主人の別宅のような家。しかし、なんとなく不審さが残る。
それが発端となって、三人の調査により、かげの商売の存在のひとつが浮び上ってきた。注文に応じて、お好みの女性を|妾宅《しょうたく》に配達する組織。こうなると|妾《めかけ》とはいえない。売春と称すべきだ。
幕府は売春を、遊廓内に限って許していた。街の風紀を守るためであり、また、遊廓からは巨額な金を定期的に召し上げている。そのため、他の売春行為は取締りの対象になっていた。
しかし、妾をかこうことは禁じられていない。禁止したら、将軍や大名の側室まで問題となる。この盲点をついた、一日だけの妾という巧妙な商売だった。幕府におさめなくてすむ金だけが、余分なもうけとなる。
こんなのがいるから、まともな人びとが損をしているのだ。三人はひそかに追及した。その元締めがどこにあり、どう注文をとり、どう女を連れてゆくかを……。
そして、また町奉行へ報告した。どのような処罰がなされたかまではわからない。しかし、奉行は三人の働きをねぎらい、今度も多額のほうびを渡してくれた。
これで、三人はさらに勢いづいた。悪をこらしめることが有利な商売だとも知る。しばらくのあいだは、一味からしかえしされるのではないかと心配だったが、そんなこともなかった。お奉行さまは報告者の氏名を秘密にしてくれたらしい。それは彼らを一段と力づけた。なにしろ、われわれのうしろには、お奉行さまがついているのだ。
さて、つぎはなにをやろう。
にぎやかな街なかで、三人はけんかを演出した。良白、菊次郎の二人が、尾形忠三郎となぐりあったのだ。やじうまが集り、やがて岡っ引があらわれ、三人を物かげに連れていって……。
そのあと、三人はそれぞれ各所をぼやいてまわった。
「派手なけんかをやらかしましてね。なに、たいしたことはなかったんですがね。その時のことですよ。岡っ引がやってきて、仲裁してくれた。そこまではいいんですよ。帰ろうとすると、ちょっと待てときた。おさめてやったのだから、礼金を出せという。十手にはかないません。なにしろ、出さなければ、しょっぴくと……」
ほうぼうで話すと、岡っ引にゆすられたという人の話を、いくつか聞き出せた。岡っ引とは、幕府につかえる者ではない。町奉行所配下の与力が、私的にやとった連中のことだ。なかには、たちの悪いのもいる。
たんねんに聞きまわっているうちに、悪質な岡っ引の人名表ができあがった。三人はそれを町奉行に報告する。おこられるのではないかと、いくらか不安だった。奉行所に対する批難でもある。
しかし、町奉行は喜んでくれた。
「よく調べてくれた。岡っ引に対して、庶民は泣き寝入りをしていたわけだな。いい参考になった。与力たちにさっそく注意することにする。わたしの威信も高まるというわけだ」
ほうびの金をもらうこともできた。
世の中には悪の種類が多い。三人は島の流人たちのことを思い、彼らの無念さをはらしてやろうと、かくれた悪を根絶させる仕事にはげむのだった。
散歩の途中、良白はある若い娘を見かけ、なにか心にひっかかるものを感じた。毎日、近所の神社へ参詣にくる女だ。育ちがよさそうなのに、貧しげな身なり、悲しげな表情。いわくありげだった。思い切って声をかけてみる。
「なにか悩みをお持ちのようですね。話してみませんか。気がはれるかもしれない」
「お聞きいただけますか」
娘は、せきを切ったように話しはじめた。がまんしきれない気分だったのだろう。
その娘の父は回船問屋だった。かなり手びろく商売をやり、利益もあがり、なにもかもうまくいっていた。しかし、とつぜん不幸な日がおとずれてきた。
禁制品の抜け荷、すなわち密輸が発覚したのだ。営業は停止され、財産は没収。父は遠島となったという。
「……それで、ご赦免の一日も早いことを、神さまに祈っているんですの。島に流された人の生活って、どんなんでしょう」
良白は胸がつまった。その父の名に覚えはなかった。たぶん別な島へ送られたのだろう。しかし、いずれにせよ、いい生活ではない。それに、抜け荷となると、かなりの罪だ。そう早くはご赦免になるまい。奉行が特別にはからってくれればべつだが、それについての進言は許されないだろう。
「気候のいいところだそうだから、ぶじに毎日をすごしておいででしょうよ。だが、それにしても、つまらんことが発覚したねえ」
「抜け荷はどこの回船問屋も、大なり小なりやっていることですの。そのため、係のお役人さまには、つけとどけをしていました。ある程度なら、黙認ということが普通だったんですの。しかし、表ざたになってしまい、なにもかも終りになってしまいましたわ」
娘は涙ながらに話した。係の役人も職を免ぜられたという。良白は聞いた。
「で、いまは……」
「母といっしょに、親類の家に居候しておりますの。気がねしながら……」
「お金は残ってないんですか」
「なにもかも没収。残ったのはわたしの鏡台ぐらい。でも、そのなかに、ある大名家へ貸した金の証文が残っていました。たいへんな額。全部とはいわないまでも、いくらか返していただけるといい。そう思って出かけたんですが……」
「どうでした」
「けんもほろろに追いかえされました。おとりつぶしになった商店へ、金を払うことはないと」
「ひどい目に会いましたねえ。わたしにも、すぐどうこうしてあげるという案はない。しかし、住所をお教えしておきます。なぐさめのお話し相手にはなってあげられましょう」
良白は娘と別れ、長屋に帰って、菊次郎と尾形忠三郎に話す。
「というわけなんだ」
「気の毒ではあるが、悪は悪。やむをえないんじゃないかな。無実というのなら話はべつだが……」
そんな結論だったが、数日後、娘がたずねてきた。良白は言う。
「さっきもあなたに同情し、話しあっていたところですよ。しかし、妙なそのお顔。どうなさいました」
「いま、植木屋さんを見かけたのです。あとをつけましたら、ある大名家のなかに入って行きました。そこの庭の手入れをするためでしょう」
「そのことが、なぜ……」
「その植木屋、まえにうちの店の番頭のひとりだったんです。よく働くので父も信用し、なにもかもまかせていた。あの時に処罰され、江戸追放になったとばかり思っていました。それが大名家お出入りの植木屋になっているなんて、考えてみると、変でしょうがないんですの」
「そういえば、おかしなことですな。似ているけど、別人ということも……」
「しかし、あまりに似ているので……」
「なんとか調べてみましょう」
良白は娘をなだめて帰した。三人は相談する。いまの話には真実味があった。調べてみる価値があるのではなかろうか。
菊次郎がそれらしき着物を借りてきて、金持ちの商店の主人に変装した。役者だけあって、みごとなものだった。そして、問題の植木屋が仕事をすませて帰ってくるのを呼びとめる。
「もしもし、植木屋さん」
「は、なんでございましょう」
「わたしの別宅の庭の手入れをたのみたいのだ。お金ならいくらでも払いますよ。一流の庭に仕上げたいのだ」
「いまの仕事がすんでからでないと……」
「決して急ぐことはありません。ま、きょうは、ひとつ打ち合せということで一杯……」
と料理屋へ案内する。座敷は予約しておいた。そのとなりの部屋には、良白と尾形忠三郎とが待ちかまえている。
「さあ、遠慮なく飲んで下さい……」
酒をすすめる。そのなかには、良白の例の薬草が入っているのだ。それがきいてくるのをみはからって、良白があらわれて話しかける。
「そろそろ、あなたは眠くなりますよ。気分が楽になってゆきます……」
「はい……」
「あなたは、わたしを信用する。胸のつかえを話してしまう。すると、あとで気持ちがすっきりする……」
「はい……」
ききめがあらわれてきた。屋形忠三郎は、他人に聞かれぬよう、廊下を見張っている。良白は植木屋に質問した。
「あなたは、まえに回船問屋の番頭をやっていましたね……」
「はい……」
娘の言ったことは、やはり事実だった。菊次郎と顔をみあわせ、良白はさらに聞く。
「それなのに、いまは植木屋。いったい、あなたの本職はなんなのです」
「お庭番、つまり公儀の|隠《おん》|密《みつ》です……」
まさに意外な答え。良白がつぎの質問を思いつくまで、しばらくの時間を必要とした。
「それは大変なお役目ですね。ごくろうさまなことです。さぞ、気疲れも多いことでしょう。しかし、なぜ、そんなことをなさったのです」
「理由は知りません。わたしは、命じられたことをしただけです。あの回船問屋に入りこみ、抜け荷をあばくようにと……」
名前など、ほかにもいくつか聞いたが、それ以上のことは判明しなかった。植木屋をそこで眠らせて、三人は長屋に戻る。
「どうやら、本当に隠密のようですね。しかし、こんなことに、なぜ隠密が。抜け荷なら、勘定奉行か町奉行の管轄でしょう。畑ちがいだ。尾形さん、どう考えます」
「わからん。隠密とは将軍、老中、御側用人からの指示で働くものだ。考えられることはだな、あの回船問屋から大金を借りていた大名家が、上のほうに運動し、店をつぶすようにしむけたと……」
「しかし、まさか、そんなことが」
「これは、わたしの推理にすぎない。しゃべった内容が正しければのことだ。良白さんの薬の力はどうなんです」
「あの薬のききめは、まちがいありません。だから、いつかの盗んだ金のかくし場所だって、その通りだったでしょう」
菊次郎が口をはさむ。
「事実としたら、こんななげかわしいことはない。ひどいもんだ。こんな行為が許されるのなら、島の流人たちのほうが、はるかに罪が軽いといえる。十両ぬすんで首が飛ぶのに、大金のふみ倒しは平然とまかり通る」
「ひとつ、隠密の動きについて、よく調べてみようじゃありませんか」
「どこからとりかかろう……」
隠密は、上の指示を受けると、そのままある呉服店に直行し、身なりを変え、ただちに目的地へむかう。途中、代官所に寄り、命令書を示して、費用の支給を受ける。命令書はそこにあずけ、帰りに受け取ることになっている。持ったままだと、隠密の身分がばれるからだ。これらのことを、薬を飲ませた時、植木屋から聞き出していた。
「その呉服店のそばで、ひそかに見張っている以外にないな」
それは根気のいる仕事だったが、そのうち、やっと発見できた。下級武士が店に入っていったが、しばらくすると、行商人の姿になって出てきた。三人はそのあとを追う。
交代であとをつけた。ひとりでやると、感づかれる。なにしろ相手は隠密なのだ。そいつは、江戸からそう遠くない、ある領内に入っていった。仕事を終えて出てくるのを待たなければならない。
これも気の長い話だった。しかし、ことの重大さへの好奇心が、三人の退屈さを防いでくれた。この裏には必ずなにかあるはずだという期待。
しかし、予想したより早く隠密は戻ってきた。菊次郎がそれとなく近づく。やはり行商人に変装しているので、同業のよしみといった会話を発展させることができた。そして、旅館にとまり、酒をすすめる。
いうまでもなく、それには薬が入っている。良白に交代し、質問がはじめられる。
「あなたは隠密、お庭番ですね……」
「はい……」
「どんな仕事をしてきたのですか」
「あの藩のなかで、百姓|一《いっ》|揆《き》があったらしい。それをよく調べるようにとの命を受けました。たいしたこともなくおさまっていましたが、あったのは事実。それを報告に帰るところです……」
「しかし、隠密の仕事は、|外《と》|様《ざま》大名の動静をさぐるのが主でしょう。あの藩は、幕府に忠実な譜代の大名。小さな百姓一揆なんかについて、わざわざ調べることもないはず……」
「それが命令だったのです。老中筆頭からの命令となると、やらなければなりません」
「あなたは、いま眠いでしょう」
「はい……」
「はりつめた気分で仕事をしたので、疲れたのです。ぐっすり眠って目ざめると、いまの話はすっかり忘れ、すがすがしさがよみがえります」
三人は江戸の屋敷に戻る。なぞめいた隠密の動き。なにがどうなっているのだろう。みな、考えつづけだった。
そのうち、屋形忠三郎が幕府の人事についてのうわさを聞いてきた。
「しばらくぶりで、むかしの同僚に会って、話をしてきた。このあいだ隠密の入りこんだ藩のことを聞いてみた。あの藩主は、五万石の譜代大名。殿さまは大坂城代の地位にあったそうだ。それが、このあいだ不意にお役ご免になったという。領内の取締り不行き届きが理由だ。それを指摘されると、お受けする以外になかったとか……」
「どういうことなのです、それは」
「幕府のなかで昇進するのには、それなりの順序があるのだ。最初はさまざまな役につくが、才能をみとめられると、奏者番になる。それから寺社奉行。つぎに、若年寄、大坂城代、京都所司代などをやる。それらの任をうまくはたすと、老中に進める。これがきまりなのだ」
「すると、あの藩主は、老中になれずじまいというわけですね。さぞ残念でしょうな」
「そりゃあ、そうだ。老中といえば、幕府のなかで最も権力ある地位。譜代のものなら、だれでもなりたがる。みなに恐れられ、うやまわれ、とどけ物も多いし、こんないごこちのいい地位はない。それをめぐっての争いは、はげしいものだ」
「そういえば、尾形さんのかつての主君、奏者番になりそこないましたね」
「そうだった。うむ。なるほど。もしかしたら……」
ただならぬ表情になる。
「なにを思いついたのです」
「あの時、ばくち場へ案内してくれた町人のことだ。気になっていた。あまりにもつごうよく、奉行所の手入れがあった。密告されたのだろう。やつが隠密の手先、あるいは隠密そのものだったかもしれぬ……」
「それをたねに、殿さま、出世の道からはずされてしまった。逃げたとはいうものの、若殿がそこにいたことを知られたのでしょう」
ついに尾形忠三郎は、こぶしを振りあげ、大声でわめいた。
「なんということだ。老中筆頭が隠密を使って、気に入らぬ将来の競争相手を芽のうちにつみ取り、自分の地位の安泰をはかっているとは。人物や才能が評価されかける前に、つまらぬことを表ざたにし、いやおうなしに退かせてしまう。将軍がなさるのならまだいいが、隠密を使えるということで、老中筆頭がそれをやるとは……」
「すると、あの回船問屋の件も……」
「きっと、つけとどけを受けていた担当の者を、おとしいれるためだろう。気にくわぬやつなので、その昇進運動費のもとを絶とうと。そして、自分の意中の者を後任にし、べつな回船問屋から金を巻き上げさせる……」
「なんと大がかりで巧妙な……」
「外様大名はどの藩も、隠密にはきわめて気を使い、警戒おこたりない。へたをすれば、おとりつぶし、お国替えになるからな。それに、いまの世では幕府にそむきようがない。そんなのに隠密を使っても意味がない。老中筆頭にすれば、むしろ自分の地位をおびやかす、競争相手の出現のほうが気がかり……」
「譜代大名や回船問屋となると、まさか隠密に調べられるとは考えてもみない。その油断につけこまれる。そんな大きな陰謀が進行しているとは、夢にも知らず……」
「えらいことだ。どえらいことだ。こんな行為がなされていては、江戸の庶民ばかりでなく、国じゅうの問題だ。ご政道の根本がゆらいでしまう」
「これこそ、早くお奉行さまに知らせなければならないことでしょう」
「まさにそうだ」
知りえたすべてのことを、尾形忠三郎が書きしるした。調べた隠密の名前と行動。ひとつの結論が浮びあがってくる。自分が島流しにされたのも、もとはといえば、そのせいなのだ。文に怒りがこもる。
三人はそれを持ち、町奉行の下屋敷に出かけてゆく。大変な報告だ。こんどはどうほめられるだろう。
町奉行はそれを読み、顔色を変えた。
「うむ。驚くべきことをつきとめたものだな。まさしく天下の一大事。だれかに話したか」
「いいえ、まず、まっさきにお奉行さまにお知らせしなければと……」
「よくやってくれた。しばらく、ここで待っておれ」
奉行は座敷から出ていった。そのとたん、座敷の三方で、がたんと音がした。見まわすと、木の格子でふさがれていた。上から落ちるしかけになっていたのだろう。一方は壁、そとへ出られない。大声をたてたが、応答はない。
やがて、奉行が戻ってきた。年配の人物を連れてきた。それにこう説明している。
「この者たちが、このような報告書を作ってまいりました。いかがお考えです」
「いうまでもなく、重大きわまる」
たまりかねて尾形忠三郎が声をかける。
「お奉行さま。これはどういうことです。早く出して下さい。いったい、その人はだれなんです」
奉行は言う。
「このかたは、ご老中筆頭。ここは、その下屋敷の裏に当る。あまりにも大問題なので、おいでいただいたというわけだ。ご意見をどうぞ、ご老中……」
「ううむ。わしの計画、すべてぬかりないと思っていたが、このような者たちに知られたとは。泰平がつづき、隠密の質が落ちたのかもしれぬ。今後よく注意しよう」
「さいわい、発見者がわたくしで、よかったと申すべきでしょう。もし、この報告書が目安箱へでも入れられていたら……」
「将軍の目にふれてしまう。なにもかも終りになるところだった。よくやってくれた。そちについては、前から目をかけていた。近く昇進するようはからってやる」
「ありがとう存じます。なにとぞ、よろしく。わたくしの忠実さは、これでおわかりいただけましたでしょう」
「いうまでもない」
と老中は答え、奉行はさらに聞いた。
「ところで、この三人の者たち、どう処置いたしましょう」
「適当に始末してしまうがいい。町奉行所からのその報告を、わしがみとめれば、それですむ。そもそも、こいつら、島帰りだそうではないか」