しかし、徳川時代において、大藩かならずしも、経済的に余裕のある藩とはいえなかった。米作による収入も多いかわりに、支出もまた多い。大藩となると、家臣の数もそれだけ多いし、参勤交代、江戸屋敷の運営費、みなそれに応じて、かなりの費用を必要とする。
とくにやっかいな問題は、だれもの気のゆるみだった。小藩だと藩の経営の苦しさをじかに知ることができるので、それぞれ節約につとめる気になる。それに反し、うちは大藩なんだからと思う者ばかりとなると、引きしめがむずかしい。
殿さまも、大藩という体面を考えて、おうように金を使う。なんとかなるはずだ。周囲からそんな目で見られ、おだてられ使わせられてしまうといった状態だった。率先して節約にはげむというわけにはいかない。
というわけで、財政のやりくりは大変だった。ぼろを出さず、まあまあ運営できているのは、千二百石の禄高の勘定奉行、赤松修左衛門のおかげといえた。すでにかなりの年輩だった。なかなかの手腕家で、経理にくわしかった。彼の頭のなかには、収入と支出の予算表が、整理されておさまっている。
つねに支出のほうが多かった。それをなんとか処理しているのは、大藩という信用と、修左衛門の才能だった。商人とのかけひきもうまく、借入金についての交渉も巧妙だった。ほかの者に、とてもこの仕事はつとまらぬ。そのため、年配になっても職をはなれることができないというわけだった。
といって、後継者がなければ先行きが心配だが、その点に関しては大丈夫だった。いちおうの準備はできていた。
修左衛門には娘がひとりあった。あまりできはよくなく美人でもなかったが、養子のきてならいくらでもある。武士の息子といっても、家をつげなければ一生ずっと日かげの身。なんの役にもつけない。一方、勘定奉行の家をつげるとなると、それは重要な地位。天と地の差がある。
赤松修左衛門は時間をかけ、家臣の二男三男のなかから、適当な人物をえらび出した。勘定奉行だけあって、人を見る目はある。それをむこ養子にした。
その青年は養子となるとともに、修吾と名が変った。やがて、赤松家の家督を相続すれば、その代々の名、修左衛門を襲名することになる。そして、勘定奉行の職をつげることも確実だった。
家老とちがって、勘定奉行は世襲の地位ではない。しかし、修左衛門は気に入った養子のため、その対策をおこたらなかった。修吾を補佐役である勘定頭のひとりとして出仕できるように工作し、実現した。普通だと、家督をつがない限りお城への出勤はできないのだが、そこが修左衛門の実力だった。
これは、わが娘のためであり、赤松家のためであり、ひいては藩のためでもある。
修吾はともにお城へ出仕し、公的な仕事の見習いをした。また帰宅すると、公用の席では口にできない裏面の|秘《ひ》|訣《けつ》も教えられた。城下の大商人が、ごきげんうかがいに屋敷へやってくると、修左衛門は彼を同席させ、紹介した。
「これがわたしのあととりです。いろいろと教育しているところだ。よろしくたのむ」
「こちらこそ、なにぶんよろしく。お奉行さまのように物わかりのいいかたになっていただけると、ありがたいのですが……」
意味ありげに笑う商人に、修左衛門は言う。
「そう仕上げるよう修業させている。なかなかみどころのあるやつだよ。おまえたちも、なんとか手伝ってくれ」
「わかっておりますとも。そうときまったら、いかがでしょう。これから一杯……」
商人に案内され、料理屋へ出かけて豪遊することにもなるのだった。商人は武士にとって別人種といっていいほどのちがいがあるが、その操縦術をしだいに身につけ、修吾もなかなかのやり手に成長していった。
藩政の責任者である城代家老が、勘定奉行の部屋に来て、こんな話をすることもある。
「江戸の殿から、またも金がいるとの使いがあった」
「なんとかいたしましょう」
「いつもの報告だと、やりくりが大変だということだが、どうなのだ」
「必要な経費とあらば、それを調達するのが勘定奉行の仕事でございます」
修左衛門は家老たちに、この仕事が容易ならざるものだと、それとなく毎回ふきこんでいるのだ。城代家老はうなずく。
「そうであろう。わたしなど、数字を聞くだけで頭がおかしくなってくる。これだけの藩だ。財政は複雑きわまるものであろう。それが、なんとか運営できているというのも、修左衛門がいるからこそだ」
「おそれ入ります」
「しかし、気になってならぬ点がある。貴殿もかなりの年齢になってきた。出仕できなくなったら、あとはどうなるのだ」
「そのことはご心配なく。修吾をみっちり仕込んでおります。やがては、いくらかお役に立つようになりましょう」
「それを聞いて安心した。武芸の達人は多いが、財政の達人はえがたいからな。しかし、いまのところ貴殿にかわりうる人物はいないのだ。からだに注意し、できるだけいまの仕事をつづけてくれ」
「はい。おっしゃるまでもなく……」
上からの信用はあった。城代家老に言われるまでもなく、修左衛門もやめるつもりはなかった。この仕事が面白く楽しくてならなかったのだ。もっとも、下のほうでは彼に対して、いくらかの悪評もあった。しかし、そんなことを気にしていたら、この職はつとまらぬ。
勘定奉行をやれる人物など、ほかにいない。大坂の米問屋、両替店をはじめ、商人たちとの交渉。こういったことは、武芸や学問だけしか知らぬ人物にはできっこない。
修左衛門にとって、すべて順調に進展しながら、年月が流れていくように見えた。
修吾は三十五歳になった。ある日、凶事が発生した。夜、屋敷の|中間《ちゅうげん》が駆け戻ってきて叫んだのだ。
「大変です、大変です……」
「いったい、なにがおこったのだ」
修吾が聞くと、中間は修左衛門の死を告げた。
「ご主人さまが殺された……」
「だれにだ。落ち着いてよく話せ」
「勘定頭のひとり、駒山久三郎にです。料理屋からの帰りのことです。道でたまたまお会いになった。なにかお話をおはじめになった。聞いては悪いと、わたくしは少しはなれて待っておりました。そのうち、駒山さまの声がしだいに激しくなったかと思うと、たちまち刀を抜いて切りかかり、ご主人さまは身をかわすひまもなく……」
「そういえば、駒山はまだ若く、かっとなりやすい性格だったな。それにしても、むちゃだ」
そばで聞いていた妻は、実の父というわけで、声をふるわせながら言った。
「お父上が殺されるなんて、あんまりでございます。早く、なんとか……」
「わかっている。すぐ行って、しとめてくれる。だれか、三人ほどついてまいれ。やつはそれほどの腕前ではないぞ。それから、ひとりはお城へ知らせに行け……」
修吾は三名の若党を連れ、駒山の屋敷へかけつけた。また、お城からも応援がきた。しかし、もはや駒山の姿はなかった。凶事のあと、馬に乗って藩外へ逃亡してしまったらしい。国境に関所はあるが、家臣が通るのをとめるわけにはいかなかった。
つぎの日、修吾はお城へ出て、城代家老のところへ行った。城代は言う。
「修左衛門は、まことに気の毒なことであったな。当藩にとって、かけがえのない人物であったが……」
「さっそくですが、わたくしは、かたき討ちをいたさねばなりません」
「よく言った。武士はそうあらねばならない……」
城代は大きくうなずき、そのあと、声を低くしてつづけた。
「……まさしく、おもてむきはそうだ。しかし、藩の財政となると、これまた重要。さっき、勘定頭たちの意見を聞いたのだが、修左衛門の後任として勘定奉行をつとめられるのは、そちのほかにいないようだ。金銭関係となると複雑で、普通のものには、なかなかやりこなせないものらしい……」
だれも勘定奉行に昇進はしたいが、へたをすると失敗し、あれこれ責任をしょいこむことになる。そこを考え、みな無難な説をのべたらしかった。
「……勘定奉行は欠かせない存在だ。修左衛門はそちにとって、実の父ではない。また、駒山の行為は、私的な犯行でなく、藩に対する反抗とみることもできる。そこでだ、江戸の殿に連絡し、特別なはからいにしたいと思う。すなわち、腕の立つ家臣に上意討ちを命じ、駒山のあとを追わせることにする。そちはここにいて、勘定奉行をつとめてくれ。わたしも話のわからぬ男ではないのだ」
「ありがたいおぼしめし。しかし、そうはまいりません。親のかたき討ちを他人にまかせたとあっては、武士の名誉にかかわります。非は駒山にあるにせよ、殺されたというのは修左衛門の不覚。わが赤松家の名折れでもあります。わたくしが自分でやります」
修吾ははっきりと言う。城代は困った顔。
「しかし、財政をゆるがせにしておくことはできないのだ。そちにいなくなられては、藩として不便だ」
「長くて一年、早ければ半年。その日時を下さい。かならずやりとげます」
「そんなことを言うが、かたき討ちとは大変なことなのだぞ。当藩にだって前例がないわけではない。五年か十年で討てればいいほう。大部分は、かたきを追いつづけて一生を終ることになる」
「そんなことにはなりません」
「また、えらい自信だな。かりに、駒山を追いつめたとする。しかし、むこうも必死だ。勝てるとは限らぬぞ」
「負けるかもしれないなど考えていたら、かたき討ちはできません。これは武士の意地にかかわることなのでございます。やつを討ちはたす。わたくしの心にあるのは、それだけです」
「そちが、それほどまでに激しく武士の道に徹しているとは思わなかった」
城代は意外そうな表情だった。
「かたき討ちに出るのを、ぜひ、お許し下さい」
修吾は熱心に主張した。もっとも、これにはわけがあった。修左衛門の死を知った時は、彼もかたき討ちなど気が進まなかった。成功率が一割にもみたず、のたれ死にが多いことなど、もちろん知っていた。
困ったことになったなと思いながら、昨夜、一段落したあと、修左衛門の部屋へ入り、手文庫のなかを調べてみた。要領のいい人だったから、なにか万一の際のためにと書き残したものがあるのではないかと思って。そのたぐいはなんにもなかったが、ひとつの|鍵《かぎ》が出てきた。
なんの鍵だろう、それはすぐにわかった。かたい材質の木で作られた、部屋のすみの押入れ。そこの錠にぴたりと合った。それをあけてみる。そして、発見したのだ。
いくつもの千両箱。からではなく、いずれも小判がつまっている。
ははあ、商人たちからのつけとどけを、ためこんだというわけだな。修吾にはすぐにわかった。|賄《わい》|賂《ろ》を取るこつを、それとなく教えられていたからだ。
修左衛門について、一部に悪評があったのは、このためだな。しかし、それを一掃するのに、これはまたとない機会だ。赤穂浪士の義挙は、武士たちのあいだで、いまも敬服の念をもって語られている。先日、それをあつかった芝居をする一座が、この藩にも来て、いやに好評だった。
ここで親のかたきを討てば、修左衛門の悪評は消える。また、自分の名はいっぺんに高まり、武士のかがみという威信がつく。しかるのちに勘定奉行の地位につけば、どこからも文句が出なくなる。名実ともに藩の重要人物ということになる。しかし、他人にたのんで討ってもらったのでは、そうはいかないのだ。
修吾は修左衛門の教育により、いまや金の力をよく知っている。金さえあれば、不可能なことはないのだ。たとえ、かたき討ちでも……。
そんな事情を知らない城代家老は、首をかしげ腕組みをする。
「どうたのんでも決心は変らぬようだな。しかし、それにしても、そちの留守中の財政のことが心配でならぬ」
「出発は四日後にいたします。そのあいだに、数カ月間の金のやりくりについて、指示を与えておきます。また、商人たちにも会い、よろしくたのんでおきます。途中でなにか思いついたら、手紙で対策を命じます」
「それはありがたい。ところで、正式にかたき討ちに出るとなると、家督相続、奉行への就任はそのあとということになる。そちの留守中、わたしが勘定奉行を兼任することにしよう。だれかを任命し、あとで格下げでは当人に気の毒だ」
「大変なお心づかい……」
「勘定奉行の地位は、保証しておく。そればかりではない。帰国のあかつきには、加増は確実だぞ。藩としてもめでたいことだし、殿もお喜びになる。そうだ。旅費がいるだろう。好きなだけ持って行くがいい。なにかと金がかかるものだぞ」
「ありがたいお話ですが、武士のたしなみ、いくらかのたくわえはございます。それに、勘定方をつとめる者が、かたき討ちという私的なことに金を持ち出したとあっては、ひと聞きがよくございません。よくない前例を作ることにもなります」
「それもそうだな。なにからなにまで、みごとな心がけ。感心のほかはない。そちは修左衛門にまさる人物のようだな」
「おそれ入ります。お願いは、あだ討ちの免許状のことだけです」
「わかっておる。江戸屋敷を通じ、すぐ幕府へとどけさせる。その控えと、事情を書いてわたしの印を押した書類とを作って渡す。それがあれば、どこからも文句は出ない。どこの関所も通れる」
「ありがとうございます」
「かたきにめぐり会えぬようだったら、途中で帰国してもいいぞ。上意討ちに切り換えるようにする。藩の財政のほうが重要なのだ」
いたれりつくせりの条件だった。普通だと、わずかのせんべつだけで追い立てられ、目的をとげるまで帰国は許されないのだ。
この修吾の場合は、もっともっと条件がよかった。留守中の注意を勘定頭たちに指示して帰宅すると、毎晩のように、城下の大商人たちがやってくる。
「修左衛門さまには、ひとかたならぬお世話になり、もうけさせていただきました。惜しいかたです。これは少しですが、香典として供えさせて……」
「かたじけない。じつは、わたしは、そのあだ討ちに出かけなくてはならない」
「そのうわさは、もっぱらでございますよ。なんという勇ましいこと。めでたく本懐をとげて帰国なされば、勘定奉行とか。そうなったら、先代さま同様、よろしくお引き立てのほどを……」
「承知しているよ」
「その日が一日も早いようにと、ちょっとした品を持ってまいりました。きっとお役に立ちましょう」
ずしりとした手ごたえで、小判の包みとすぐわかる。
「かたじけない。かならず期待にこたえてごらんに入れます」
かなりの金が集ったのだった。戸棚にためこんであった修左衛門の金と合計したら、ひと財産。一生遊んで暮せるほどになる。
商人のなかには、こんなのもあった。
「かたき討ちとか。ご成功を祈ります」
「うまくやりとげるつもりだ」
「なにか、せんべつの品をと思いましたが、重くてお荷物になってはと思い、こんなものを持ってまいりました。どうぞ……」
「書状のようですな」
「はい。各地の同業者への、わたくしからの紹介状です。お金にお困りになりましたら、これをお示しになって下さい。いくらでも用立ててくれるはずです。あとは、わたくしが始末しますから、ご遠慮なく借用証をお書き下さい。これは、全国の地図に、同業者の店の所在地をしるしたものです」
「それはそれは、便利なものを、ありがたくいただいておく」
「そのかわり、勘定奉行にご就任のあとは、よろしくお願いしますよ」
「わかっているよ」
もっとすごいせんべつをくれた商人もあった。
「かたきの駒山久三郎の似顔絵を、各地の同業者にくばってあります。姿を見かけたらすぐ連絡がとれるように手配しております。大きな町にお寄りの時は、わたくしの同業者をおたずね下さい」
「それこそ、なによりのご好意、利用させていただくよ」
「その似顔絵を少し余分に刷りましたので、持参いたしました。旅のお荷物にお加え下さい。必要になる場合もございましょう」
「かさねがさね、かたじけない」
商人たちは、話のわかる勘定奉行をなんとか早く実現させたいと、みな、わがことのように熱心だった。
赤松家は千二百石。使用人として若党十二人、中間八人、下女六人がおり、それに馬四頭をそなえていた。中間とは荷物を運んだり、馬のせわなどをする雑用係。刀を差すことは許されていない。若党はそれより少し格が上、大小を差すことができ、武士なみの服装。邸内にあって、取次ぎ、身辺のせわなど、秘書のような仕事をしている。
修吾はそのなかから、若党三人、中間四人を連れてゆくことにした。いずれも健康な若いやつ。馬は二頭、一頭は乗用、一頭は荷物用。資金は充分。途中で不足すれば、手紙を屋敷に出し、若党に持ってくるように命じればいい。また、商人の紹介状を利用してもいい。
まったく、かたき討ちとして、たぐいまれな好条件の出発だった。
修吾は馬にまたがり、供をひきつれ、ゆるゆる街道を進みながら言った。
「まず、かねてからあこがれていた江戸へ出ることにしよう。こういう機会でもなければ、江戸見物もできぬ。考えてみれば、十九歳で養子となり、二十歳からお城づとめ、いま三十五歳。十五年間、働きどおしだった」
「さようでございますな」
「かたき討ちが終れば、勘定奉行。そうなったら、江戸づめの仕事になることもなく、藩で人生をすごすことになる。心おきなく遊ぶのは、いましかないわけだ」
江戸に入り、いちおう藩の江戸屋敷にあいさつ。それから一流の旅館に滞在することにした。さしあたり、各所を見物。さすがは花のお江戸。にぎやかであり、なにを見ても珍しかった。半年はたちまちのうちに過ぎる。
「江戸には、吉原とかいう面白いところがあるそうだ。ひとつ、出かけてみよう」
そこには、たくさんの美女がいた。修吾はけっこうもてた。だが、ばかではない。それは金があればこそだぐらい、自分でもわかっている。それがわかって遊んでいると、とめどもなくおぼれることもない。毎日かよいつづけのせいもあったが、半月もすると、いいかげんにあきてきた。
「女遊びも悪くないが、おなじことのくりかえしのような気がしてきた。なにか、もっと変ったことはないものかな」
すると、店の者が言った。
「では、たいこもちでもお呼びになったら。芸ができ、話し相手のうまい男のことです」
「そんなのがいるのか。たのむ……」
やがて、たいこもちがやってきた。
「おや、殿さま。昼間からお遊びとは、さすがけっこうなご身分で……」
いやになれなれしかった。しかし、うまれてはじめて殿さまと呼ばれ、これはなかなか刺激的なことだった。
「いやいや、殿さまというほどのものではない。ただの、いなかざむらいだ」
「これはまた、なんと奥ゆかしいこと。それでこそ殿さまですよ。江戸には、殿さまなんて、はいて捨てるほどいる。下っぱの旗本なんか、直参であるというだけで、殿さまと呼ばないと怒るとくる。あっしはね、そんなやつらは、決して殿さまなんて呼びやしませんよ。たいこもちだって江戸っ子だ。殿さまらしい風格をそなえた人しか、そう呼ばないんです」
「なかなかいいことを言うな。面白い。金をつかわそう」
「や、拝領品をいただけるとは。殿さま、ありがたきしあわせ……」
「なんだかんだ言っても、おまえは金にさえなれば、だれでも殿さまと呼ぶんだろう。旗本だろうが商人だろうが……」
「ま、そんなとこで。さすがは殿さま。頭が鋭い。うわさにたがわぬ名君……」
「調子のいいやつだな」
その時、たいこもちは急にまじめそうな口調になった。
「しかしねえ、殿さま。あなたには、なにか普通の人とちがったところがございますな。人生のかげといいますか、悲しみといいますか、暗い情熱といいますか、なにかを内心に秘めておいでだ。そこが魅力的だ。なぞめいている。江戸の軽薄な連中とはちがいます。なぜでしょうなあ。考えさせられますな」
「じつはな、父のかたきを追って、藩から出てきたのだ」
「え、えっ。それは本当ですか。まさか……」
たいこもちは、びっくりした。本心から驚いた。きまり文句のおせじを言ったら、こんな答えが出てくるとは。吉原で豪遊しているかたき討ちなど、聞いたことがない。二の句がつげなかった。
「ふしぎかね」
「いえいえ、もしかしたらそうじゃないかなとの予想が当って、われながら感心したというわけですよ。こちこちに意気ごんだりせず、まず英気を養う。余裕があります。大石内蔵助も敵の目をあざむくため、京都で豪遊をなさったとか。その作戦でもあるわけですな。遠大にして大がかりな計画……」
修吾は気がつき、頭をかく。
「つい、つり込まれ、よけいなことをしゃべってしまったようだな。こいつ、よそへ行ってぺらぺら話しそうだな。どうしたものだろう」
「そんなお疑いは、ひどいですよ。殿さま、あっしも男だ。口は固い。決して他言はいたしません。といっても、信じちゃいただけないでしょうな。こうしましょう」
「どうしようというのだ」
「本懐をとげるまで、あっしは殿さまのそばをはなれない。それならご安心でしょう。きょうからは同志となります。血判を押しましょうか。あたしゃ、殿さまにほれこみました。それに気前がいい。かたき討ちとは、武士道の花。お手伝いさせて下さい。人生の語りぐさになる。で、討入りは、いつ、どこなのですか」
「相手がどこにいるのか、まだわからんのだ。これから旅をしてさがすのだ」
「おやおや、そうでしたか。じゃあ、そのお供をさせて下さい。旅のあいだ、決して殿さまを退屈させませんよ。いえ、お金なんか、どうでもいい。宿泊費さえ出していただければ。じつは、打ちあけたところ、旅をしてみたいと思ってたとこなんですよ」
「面白いやつだ。おまえには妙に正直なところがある。気に入った。少しは旅も楽しくなるだろう。連れていってやる」
たいこもちは、ひたいをたたいて大喜び。
「しめた。ありがたい。きびだんごをいただいて、桃太郎のお供になれた動物の気分がわかりますな。で、べつなお供、女はいかがです。きれいなのをひとり、お連れになりませんか」
「女なら、各地にいるだろう」
「各地の名産をお楽しみになるってわけですな。それもよろしゅうございましょう。じゃあ、商売女じゃない、よく働くまじめなのをひとりどうです。洗濯、ほころびなおし、食事のお給仕など、なにかと便利ですよ」
「そういわれてみると、いたほうがいいかもしれぬな。適当なのを手配してくれ」
「だんだん具体的になってきましたな。そうときまったら、きょう限り吉原遊びはおやめ下さい。お金がもったいない。うまくいってから、また大いに遊びましょう。その時には、ご祝儀をいただきますよ。本懐をとげたあとの祝杯。いいもんでしょうなあ」
たいこもちのほうが熱心になってきた。そして、旅じたくをし、いかにも働きものらしい女をみつけて、修吾の旅館に移ってきた。せかすように言う。
「では、出発といきますか。殿さま」
「そうだな。けっこう江戸で遊んだし」
「かんじんな点。かたきに会った時、勝つみこみはあるんですか」
「そうだ、そのことを忘れていた」
「おうようすぎますよ、殿さま。用心棒をおやといになりなさい。江戸には、金に困っている浪人者がたくさんいる。よりどりみどりです」
江戸には道場がいくつもあった。修吾はそれをまわり、推薦をたのんだ。用心棒と聞いて、そんなくだらぬ仕事はいやだとの反応もあったが、かたき討ちの助太刀と知ると、だれもまじめな表情になり、あとで仕官できるかもしれないとにおわすと、志願者の数はふくれあがった。浪人にとって、こんなうまい話はめったにないのだ。
修吾は彼らに試合をさせ、強いのをえらび出した。また、かたきとつながりがあってはと、身もとを調べ、保証人をつけさせた。かくして、剣術と柔術の達人を、それぞれ一名ずつやとうことができた。
準備がととのった。
「そろそろ出かけるとするか。まず、東海道をゆっくりと西へだ……」
「けっこうですな、殿さま。弥次喜多道中以上に楽しくやりましょう」
「楽しむのはいいが、かたきらしい人物に注意してくれ。それから、旅行中は殿さまと言うのをやめろ。関所の役人に変に思われたら、やっかいだぞ」
「ごもっともで……」
のんきな旅だった。若党や中間が荷物を持ってくれる。用心棒がいるので身は安全。たいこもちのおしゃべりがつき、金は充分にあるのだ。連れてきた女はよく働き、遊ぶ相手の美女はどの宿場にもいる。
かたきの人相書をくばりながら進んだ。
「この人物を見かけたら、大坂へ知らせてくれ。飛脚代は当方で出す。あとで必ずお礼をするから」
途中、すりに金を取られ、困りきっている老人の旅人を見かけた。修吾は金をめぐんでやり、老人は伏しおがむ。
「なんと情けぶかいかた。もしかしたら、水戸の黄門さまでは……」
「そんなにえらくはない。だいいち、時代がちがうよ」
「すると、黄門さまのご子孫で……」
「おじいさん、黄門さまの信者かい。それとも、本の読みすぎかな……」
あれこれ話題にはことかかなかった。
ある宿場に着くと、国もとの藩からの使いが待っていた。修吾は聞く。
「なにか起ったのか」
「大坂の両替店から、藩に対する貸金の、さいそくの話があった。その金を返済すると、お蔵の小判がほとんどなくなってしまう。どうしたものか、だれもいい知恵が浮かばず、貴殿のご意見を聞きたいと思い……」
「まかしておきなさい。そのうち大坂へ行くから、その時に相手に話して、期限をのばしてもらうことにする」
「よろしくお願いします。かたき討ちという重要なお役目の途中、お手数をかけて申しわけありません。あ、それから城代家老が、がんばるようにと申しておりました」
「まもなく目的をとげて帰国するとお伝え下さい」
修吾は伊勢まいりをし、京をまわって大坂へ入る。藩からたのまれた仕事は簡単だった。利息を払い、そのうち景気がよくなるという話をしておけばすむことだ。元金について安心でき、利息さえとれれば、貸し主は承知するものなのだ。
それを片づけ、修吾たちは大坂で遊ぶ。また、藩内の商人からもらった書面を持ち、かたきさがしの手伝いをしてくれるという同業者を訪れてみた。歓迎してくれた。
「よくいらっしゃいました。万事はうけたまわっております。いつおいでかと、お待ち申しておりました」
「で、かたきについての手がかりはわかったか。そろそろ、討ちはたさねばならない」
「少々お待ちを……」
さすがに全国的なつながりを持つ同業者の組織。いろいろな情報が集っていた。かたきの駒山久三郎は、まず長崎へ逃げたとわかった。それから大坂へ戻ってきたが、いつのまにか姿を消してしまったと。それを聞いて、修吾はがっかり。
「すると、消息不明か……」
「ずっと監視はつけてあったのですがね。いっそのこと、しびれ薬でも酒にまぜて飲ませ、とっつかまえてしばりあげ、倉庫にでも閉じこめておいたほうがよかったかも……」
「いや、そんなことをしては、あとで評判が悪くなる。やはり堂々と討たねばならぬ。しかし、これからどうしたものか……」
「そうご心配なさることはありません。大坂からの各街道の要所要所に、似顔絵をくばって手配してあります。いずれ、報告が入りますよ。まあ、のんびりとお待ち下さい。料理屋へでも、ご案内いたしましょう。前祝いという意味で……」
と宴会になるのだった。すべては時間の問題なのだ。金銭による網からのがれきれるものではない。まったく、駒山久三郎としては、とんでもない相手を殺してしまったものだ。
一月ほどがすぎた。商人が修吾の旅館にやってきて言う。
「あれ以来、どの街道からも見かけたという連絡が入らず、変に思っていたわけですが、やっと報告がありました」
「どこへ逃げたのだ」
「海路です。船に乗りこんで大坂を逃げたのです。しかし、当方だって、その点ぬかりはない。各地の港へ懸賞金をつけて手配をしておいたのです」
「すまんな、そこまで手数をかけて」
「いいえ、これぐらいのこと。しかし、勘定奉行になられたら、よろしくお願いしますよ。まず、山林の材木の件を。その実現の早いことを期待すればこそです」
「わかっておる。それより、かたきのゆくえはどうなのだ」
「江戸から飛脚で知らせがありました。船で江戸へ着いたというわけです」
「そうだったのか」
「吉原でさかんに遊んでいるとのことですよ。とまっている旅館もわかっています。見張りもつけてありますから、今度は大丈夫です。しかし、逃げそうなようすもないとのこと。だいぶいい気になっているらしい。油断しているようですよ」
「いろいろと、世話になった。このお礼はきっとする。では、江戸に出かけて討ちとるとするか。みな、出かけるぞ……」
大編成の一行は、ふたたび江戸へ。しかし、また東海道を戻るのはつまらないと、木曾のほうをまわり、山々を見物しながら、江戸へむかう。
万全の準備と、順調な進行。あとは、かたきを討つばかり。供の若党のひとりが言う。
「もっとゆっくり歩きましょうよ。討ってしまえば、それで終り。こんなふうな、期待にみちた旅ぐらい楽しいものはない」
修吾だって同じ思いだった。すべては確実なのだ。こっちには腕の立つ用心棒がいる。失敗はありえない。そして、討ちはたして帰藩すれば、栄達が待っている。
そうなれば、自分に対して、そろばんと口先だけの人間だというかげ口など、だれも口にしなくなるだろう。武勇にひいでたさむらいだとの名声、人気があがる。勘定奉行という地位、加増もある。まさに藩内随一の実力者。なにもかも思いのままにできるのだ。
その内心を察するかのように江戸へ着くとたいこもちが言った。
「どうせ勝つんですから、はなばなしくやりましょう。あっしが行って、うまいこと相手を日本橋まで連れ出してきます。そこでお討ちなさい。評判になりますよ。かわら版にもなるでしょう。大げさに、うまいぐあいに書いてくれるにきまっています。少しは金をつかませておいたほうがいいかもしれない。それを何枚も持って帰国すれば、こんないいおみやげはありませんよ」
「そうかもしれぬな」
「助太刀のお二人がおいでなんですから、負ける心配はない。ね、そうでしょう」
「よろしくたのむ」
「お祝いの会は、盛大にやりましょう。楽しみですな。まだお金はあるんでしょう。残ったお金は、ぱあっと使ってしまいましょうよ」
打合せはすみ、かたきの駒山久三郎は日本橋へとおびき出されてきた。べつに用心棒も連れていない。待ちかまえていた修吾は声をかける。
「やあやあ、なんじは駒山久三郎だな。半年前、わが父、赤松修左衛門を殺害して逃走。ここで会ったからには、逃がしはせぬ。覚悟しろ……」
その大声で、人だかりができた。助太刀の二人は、すぐにでも飛びかかれるようにと、そばにいる。しかし、なんということ、相手の駒山は平然としていた。
「わかっているよ。覚悟はできていた。だからこそ、長崎へ見物にも行ったのだし、思い残すことのないようにと、吉原で遊んだのだ。ついに金がなくなり、つけがかなりたまってしまった。ちょうどいいところへ来てくれた。もう、どうもこうもならないのだ」
「えらくあきらめがいいな。なんとなく、張り合いがなくなる。しかし、武士の意地、討たねばならぬのだ。覚悟しろ……」
「覚悟のことなら、それ以上はくどいよ。しかし、なぜわたしが赤松修左衛門を切ったのか、知っているか」
「そんな理由、いまさらどうでもいいことだが、聞くだけは聞いてやろう。しおらしさに免じて……」
「なにも知らぬようだな。商人からの賄賂の分け前をめぐっての争いのあげくだ。わたしがまとめた商談だった。だから、半分ずつという約束だったのに、三分の一しかくれなかった。そこで、かっとなって……」
「そうとは知らなかった」
「考えてみれば、乱脈をきわめた話さね」
修吾には事情がわかってきた。この豪勢なかたき討ちに出られた、あの千両箱の山の意味が。そういえば、修左衛門は勘定奉行をなかなかやめたがらなかった。金をためる面白さにとりつかれてしまったのだろう。ありうることだ。自分だって、藩に帰ったらそれをやるつもりなのだ。修吾は言う。
「そういう藩の秘事を知られていては、なおさらためにならぬ。ここで見のがすことはできない。覚悟しろ……」
「またか。くどいね。わかっているよ、わかりすぎている。金にものをいわせて、貴殿がかたき討ちにやってくることもね」
「だから、どうだというのだ」
「覚悟はできているが、なにも死にたくはない。つまり、文書を作ってあるというわけさ。藩の内情についてだ。それを読まれると、藩内の取締り不行き届きということで、お家はとりつぶしになりかねない。殿さまはじめ家臣一同、みな困ることになるぜ」
「いったい、なにを書いたんだ。教えろ」
「知りたいだろうな。それは簡単なことだ。わたしを殺してみるんだな。わたしが死ぬと、それが幕府の評定所にとどくしかけになっている。そこで表ざたになり、知れわたるというわけさ。さあ、どうぞ、ご遠慮なくお切り下さい。それとも……」