私は昭和56年に『花の結び目』という自分史風な五十年の生き恥を書いた本を出した(朝日文庫収録)。小説ではないレポートなので、感情移入ができていないという評はもっともだと思ったが、私の川柳が感性まる出しであってみれば、それをつなぐ文章はポキポキと男文であってよかったのだと反省の果てに自分を慰めもした。
さまざまな読後感をいただいた中で誰方《どなた》もふれられなかった「ひとりぐらし」についてもう一度自分に問うてみたいと思う。
私は離婚を果たしていない。だから独立して暮らしているわけではない。しかし、家族の中にあっても「ひとり」という意識は子供のころから人一倍強かったような気がする。
そんな私が仕事部屋を持って月のうち何日かをそこで過ごす半独立を形の上で果たしたのが四十八歳のときであった。それもお金がないために姉の会社の二階借りという半々独立であるからして、えらそうなことは言えないのである。
姉を頼ったことだけでも意気地がないのに、私にはまだ両親があり、その町へ仕事場を持ったのだから不甲斐ないこと甚しい。
私は五年前のそのときを思い出す。父母も姉も私に「帰っておいで」と言ったその言葉を。五十歳の娘が帰っていくところがある不思議に、私も私の実家の者も気がつかなかった。たまたま姉が独身で親娘三人という家族構成が私を受け入れようとしたのだと思う。まともな家庭なら姉に夫があり子があり孫があって、とても私の入り込む隙などないのが当然であろう。手に職のない五十女がころがり込むのは親の家ではなく、嫌われても何でも子の家であるべき筈だった。
その気づかないふしぎが私をがんじがらめにしたのだと思う。中でも母は私のひとりぐらしを許そうとしなかった。母の心の中で育つ疑心暗鬼は汚れた言葉となって私を傷つけつづけた。それにもひるまず我を貫いて来た私。私はなるべく親の家へ行かなかった。
「遠慮なくお食べよ」の親の言葉に嘘はない。けれどもその家を出て三十年の歳月はどうしようもない垣を作っていたし、婚家と同じ居心地の悪さがそこにもあったのである。
ふるふるイヤで馴染めない「家」と私。
仕事部屋だけが私の安住の箱であった。一人はいい。横になれば眠りが訪れ覚めれば書くたのしみがある。一日寝ていようが夜を徹しようが誰も文句をいわない。少々黴《か》びたパンと梅干しだけであってもゴチソウサマと気を兼ねるのに較べれば最高の食である。
私はよくよく放浪の女なのか。
巣ごもりの旬日青い飯を炊く
きのうから蜜柑が二つ枕もと
手に鳥が来ることもある半死かな
釘を踏み抜いて一人の祭果つ
きのうから蜜柑が二つ枕もと
手に鳥が来ることもある半死かな
釘を踏み抜いて一人の祭果つ