そう、それは困ったわね。ナルホド、ウンウン、全くあなたの言う通り。
私がともだちの悩みの屑籠《くずかご》にしかなれない話をすると、「それがお道の根本なのです」と老婦人は言うのである。何のお道か知らないけれど、屑籠になれる人はザラには居ないのよとおだてられると悪い気はしない。しかし、少しぐらいアドバイスできないものか、とは思う。そして再び、こざかしいアドバイスが如何に人を傷つけてしまうかに思い当たっては屑籠の役目に戻るのである。
日本の男性は揃いも揃ってなぜ言葉を惜しむのであろうか。
女たちは(私の知る限りにおいて)過分な物や事を要求してはいないのである。
フランスの男のようにおいしい言葉を毎日投げてくださいと言っているわけではない。ただ、真心がほしい。「真心ならちゃんとあるさ。いちいち口にしなくても感じ取るのが愛というものではないのか」という理屈は通っている。けれどもそれを「言葉」にして与えてほしい。一度でいいのである。
トツトツであろうと、粗野であろうといいのだから、女がその愛する男にとってどんなに大切な存在であるかを言葉で表現してほしい。
女という生きものは、その言葉を支えに生涯を生き通す性を持っているのである。
それを出し惜しむ日本男子を愛して、もんもんたる日々を送る女性を思いやってほしい。私の屑籠の多くはそれで解決するように思われる。
男と女のあいだには暗くて深い河がある。逢っているとき男と女が最高にしあわせだとは私には思えない。別れているあいだにこそ愛は鮮明に存在するのだと思う。
それなのに女は愛をいじりまわして変型させてしまう。妄想、嫉妬、孤独、そういうときの支えに言葉が必要なのである。
真心のひとこと。それがほしい。それさえあれば私の知る女たちはもっと明るくしあわせであることができる。
見ざる言わざる聞かざる──が、今や、見る、言う、聞くになった女たちの現代。それですら「ひとこと」には叶わない例を私は多く見てきた。そして私もそれを欲する一人である。
輪廻転生《りんねてんしよう》、天国に結ぶ恋を笑いとばしながら、やはり女たちは信じて疑わないのだ。男性よ、言葉を与え給え。
船の上みじかき熱き文読まむ
薄情な窓から昏れて満月よ
嫉妬から四百里羊歩かせる
抜け穴を抜けて男もたよりなや
今日は音楽で髪を洗って下さるか
肺腑をえぐる言葉戴き新年へ
薄情な窓から昏れて満月よ
嫉妬から四百里羊歩かせる
抜け穴を抜けて男もたよりなや
今日は音楽で髪を洗って下さるか
肺腑をえぐる言葉戴き新年へ