ねらった獲物は、はずしたことがないのが自慢です。
ある時、山深くわけ入った男は、一頭のメスのカモシカを見つけました。
男に見つかったカモシカは、必死で逃げました。
でも、逃げ道をまちがえたカモシカは、がけの手前で動けなくなりました。
「クワーン」
かなしそうに鳴くカモシカを見て、男はにやりと笑いました。
ところが弓を引きしぼった男は、つぎの瞬間、自分の目をうたがいました。
いつ現れたのか、老人がカモシカのそばに座っているのです。
「わしは、山の精じゃ」
と、老人は言いました。
「なぜ、お前は動物を苦しめて、喜んでいる?」
男は、答えました。
「いいえ、決して喜んではおりません。生きていく為でございます。牛も、馬も、持っていないわたくしは、鳥やカモシカを撃たねば、食べていけないのです」
男は一生懸命、言いわけをしました。
話しを聞き終わった老人は、小さな木のうつわをとり出すと、その中へカモシカの乳をしぼりはじめました。
しぼり終わると、老人は木のうつわを男にわたして言いました。
「さあ、これが今日からの、お前の食べ物じゃ」
うつわの中で乳は、チーズのように固まっていました。
「この食べ物は、ほんの少しでも残っていれば、次の食事までには、元の量にもどっている。これをやるから、もう二度と山の生き物を殺さないように。どうじゃ、約束できるかな?」
「はい。二度と、弓矢は使いません」
そう言うと、男は自分の小屋へ帰って、チーズを一口食べてみました。
「こいつは、うまい!」
もう少しで、全部食べてしまうところでした。
でも、老人の言葉を思い出して、ほんのちょっぴり残しておきました。
次の朝、チーズは元通り、うつわいっぱいになっていました。
食べる事に困らなくなった男は、弓を取ろうとはしませんでした。
山の精との約束は、守られたのです。
弓の名人が来なくなったので、カモシカたちは人間をこわがらなくなりました。
夏も、秋も、冬も、アルプスの山は平和にすぎていきました。
やがて、次の年の春がめぐってきました。
男はふと、くものすだらけの弓に気がつきました。
男はほこりをはらいながら、弓のうなる音を思い出しました。
それから、動物のあげる悲鳴を。
「ああ、腕がなる。久しぶりに、この弓をつかってみたいものだ」
ちょうどその時、カモシカの声が聞こえました。
見ると一頭、まどの外に立っています。
「しめた!」
男はすぐ弓矢を持って、飛び出しました。
矢にねらわれても、人間を信じているカモシカは、逃げようとはしません。
「ばかなやつだ」
素晴らしい獲物を前にして、男は山の精との約束をわすれていたのです。
力いっぱい、弓を引きしぼりました。
ビュン!
あわれなカモシカは、バッタリと倒れました。
カモシカの肉は、男の夕食になりました。
「いつものチーズは、食後のデザートだ」
そう思って、男が戸だなを開けると。
「あっ!」
中から、黒ネコが飛び出して来ました。
口に、あのうつわをくわえています。
人間そっくりの目と手をした、気味の悪いネコでした。
「待てっ!」
男がどなると、ネコはまどから逃げて行きました。
「おしいことをした。だが、まあいいさ。チーズはとられても、おれが猟をはじめれば、それですむことだ」
その言葉通り、男はまた、毎日のように弓矢をもって、鳥やカモシカをおい回すようになりました。
山の平和は、終わったのです。
男は以前にもまして、楽しげでした。
弓のうなり、矢羽のひびき、動物のひめい。
「これだ! おれは、この音を聞きたかったんだ!」
山をかけめぐっていた男は、いつか、山の精と出会ったがけに来ていました。
不思議なことに、そこにはあの時のメスのカモシカがいるではありませんか。
「今日こそ、しとめてやる」
男は谷をわたれずに、まごまごしているカモシカめがけて矢をはなちました。
ビュン!
カモシカはするどいさけび声をあげながら、谷底ふかくおちて行きました。
「やったぞ!」
男はかけよりました。
そして谷底をのぞいた男は、山の精を見つけました。
カモシカのかわりに、山の精が立っていたのです。
山の精は、じっと男を見つめていました。
(いや、おれが悪いんじゃない。ネコにチーズをとられてしまって、それで仕方なく)
男は言い訳をしようとして、自分の声にビックリしました。
その声は人間の声でなく、カモシカの声だったのです。
いいえ、声だけでなく、いつの間にか男は、カモシカになっていたのです。
「約束を破らなければ、ずっと人間として幸せに暮らせたものを」
山の精はそういうと、どこかへ消えてしまいました。
約束をやぶった弓の名人は、それからはカモシカとして暮らすしかありませんでした。