在中世纪的画册中几乎不见蝴蝶的身影,中世纪史学家纲野善彦先生写道。他推测其中原因是“不知是否被视为人类灵魂的象征,所以反被当作不吉利的象征”。人类把这一美感错当作恐惧,也许就是这样吧。
花から花へと弾むように飛ぶ姿がこの世のものならぬと、いにしえの人の目には映ったか。目を奪われ、表現したくなるものは時代によって変わる。初夏を彩るアジサイも、江戸時代より前の文学には、ごくまれにしか登場しないそうだ。
在花丛间起舞的样子不属于这个世界,或许在远古人类眼中就是这样一副景象吧。时代改变,人们对这一吸人眼球,极具表现色彩的生物的态度也发生了变化。装点初夏时节的绣球花,在江户时代前的文学作品中也极少出现。
もの言わぬ木にも、アジサイのように色の変わる信用できないやつがある――。万葉集には、そんな内容の歌すらある。「化花(ばけばな)」「幽霊花」の名も残ると、湯浅浩史著『植物ごよみ』にある。誰もが心からめでる花ではなかったのかもしれない。
即便是在无言的植物中,也有类似于绣球花这种色彩变幻无法信任的家伙......。在万叶集中,甚至有这样内容的诗歌。在汤浅浩史的著作《读懂植物》中,绣球花还有“化妆之花”、“幽灵之花”等名字。或许这是一种谁都不会真心赞美的花吧。
あでやかな花が雨にぬれ、露が光る姿に魅せられる現代の私たちである。しかし青空のもとで咲き誇るのを眺めると、独特の朗らかさを感じる。梅雨入りを疑いたくなるような空が、あちこちで広がっている。
雨后,鲜艳的花上水珠闪着光芒,令现代的我们沉迷其中。但是,在蓝天下眺望其盛开的样子,又让人感受到一种独特的爽朗。虽然天空为是否入梅而踌躇,但绣球花已到处盛开。
不快な雨空に出合わずうれしい。それは土から遠く離れてしまった人間の感覚である。作物の育ちが気がかりで、降雨を待って天気図を見つめる方も多くおられよう。〈百姓に泣けとばかりに梅雨旱(ひでり)〉石塚友二。
没有碰到令人不快的雨天,这着实令人喜悦。这是远离土地的城里人的感受。在农村,一定也有很多人担心植物的生长,盯着气象图期盼下雨吧。“百姓流泪,梅雨干旱”,这是石冢友二的诗。
気象衛星や天気予報などない時代、雨はどれほど待ち遠しく、どれほど恐ろしい存在であったか。チョウやアジサイが、私たちとはまったく違って見えていたときの空を想像してみる。
在没有气象卫星和天气预报的时代,雨水迟迟不降是多么恐怖的事情啊。让我们试着从蝴蝶和绣球花的角度,想象一下那片天空,这与我们的日常感受到的截然不同。