出仕家康并在关原之战和大阪之阵扬名的大久保忠教在世道太平后被幕府冷落。由此他感叹说:“当今得宠的要么是些卑劣之徒、要么是些马屁精,还有就是那些只懂财务的家伙。”
幕藩体制が確立して、儀式や財政に通じた能吏が重用されたころである。武勲が誇りの彦左衛門はそれが不満だった。自著『三河物語』で出世派、冷遇組を5類型挙げて人事のあり方を批判した。
幕府藩属体制确立后的那段时期,精通礼仪和财政的能吏备受重用。以武勋著称的忠教对此颇为不满。他在自著《三河物语言》中列举了出世派、冷遇组等5种类型的团体,对人事大加鞭挞。
さて7月は省庁人事の季節である。事務次官や局長級の顔写真が新聞雑誌のページを飾る。霞が関界隈(かいわい)では「抜擢(ばってき)」「順当」「論功」といった解説が飛び交う。
而现今,7月份是省厅人事调动的季节。事务次官和局长级别官员的肖像登上了报纸杂志的版面。在霞关一带(政府所在地),“提拔”、“理所当然”、“论功”等解说词漫天飞舞。
どうにも腑(ふ)に落ちない人事もある。国民の財産が安売りされたとの疑惑で確答を避け続けた局長が、国民から税を徴収する庁の長に就く。「適材適所」という官房長官の自賛がむなしく響く。そもそも幹部人事を一元管理する内閣人事局長は、首相の権威を笠に着たのではと疑われている当人である。官僚たちの唇は寒くなる一方だろう。
但有些人事却令人不安。涉嫌贱卖国民公共财产并一直避而不答的局长就任向负责向国民收税的税务厅长。官方长官所谓“适才适用”的自夸也倍显苍白无力。更有甚者,独掌干部人事的内阁人事局长被怀疑借着首相的权威狐假虎威。官员们益发觉得前途叵测。
平安朝を意のままに動かした藤原道長を思いだす。娘3人を天皇に嫁がせて栄華を極めたが、その力の源泉は人事にあった。「内覧」や「一上(いちのかみ)」という役職にとどまって人事を動かし続けた。摂政関白の名誉よりも実権を重んじた。
我想起了在平安朝时期只手遮天的藤原道长。他三个女儿嫁给了天皇,恩宠无双,但其力量的源泉还是在人事上。他担任“内览”、“一上”等官职,把控人事调动。相比摄政关白之类的名誉,他更重视实权。
人事権を握ること20年。〈此(こ)の世をば我世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば〉。権勢の頂点で披露した歌である。列席の公卿(くぎょう)たちは求められるまま数度唱和したという。追従か忖度(そんたく)かは知らない。
他控制人事权20年。“此世即我世,满月更无缺”。这是他在权势达到顶峰时所写的诗。当时列席的朝廷公卿照其命令被迫数次唱和。而这究竟是追随还是揣测?我们不得而知。