地名の由来はそのものズバリ、「境界」だった場所だから
大阪市に隣接して大阪湾に臨む「堺」は、仁にん徳とく天皇陵などの史跡があり、古代
から文化の開けていた土地であったことはいうまでもない。
しかし、なんといっても特筆されるのは、中世において日本では珍しい、自由都市の建
設に成功したという点だ。
室町時代後期から戦国時代にかけて、守護大名たちの勢力争いが巻き起こった。そのよ
うななか堺では、商人が率先して自治的な組織をつくり、傭よう兵へいで町の守りをし、
自給をおこなったのだった。
そして、その繁栄に目をつけた織田信長に堺の自治は破られ、当地の商人たちは豊臣秀
吉によって大坂移転を命じられている。だが、鉄砲製造、西洋医学などの知識吸収と、茶
道や能楽の大成などの文化面とで堺の果たした役割はとても大きい。
堺に繁栄をもたらした大きな要因は、海に面して開けた町だったため、ポルトガルなど
外国との交易に便利だったことだ。
また、淀川や大和川から流入する土砂が、港に最適な地形をつくり出していたためでも
ある。
こうして開けていった都市が、「さかい」という名で諸史料に顔を見せるのは、一〇四
五(寛徳二)年に編まれた歌集のなかだが、一〇八一(永保元)年になると「堺」という
漢字表記がみられるようになる。
これは、和泉いずみ堺という地名で、ここが和泉国と摂津、河内のちょうど国境に位置
したことからの命名だといわれている。