霞が関(かすみがせき) (東京都千代田区)
はるか遠くまで見渡すことができる関所
平安期より、歌枕の地として多くの和歌に詠まれている「霞が関」の地名の由来には諸説あるが、古くは、ヤマトタケルノミコトが蝦夷えみしの襲来に備えて武蔵国に設けた関所が「霞ヶ関」だったため、そこから名付けられたという説が有力である。
この名の由来は、その関所から雲うん霞かを隔てた遠方でも見渡すことができるということにあるようだ。
また、江戸期以前、荏え原ばら郡の東の境にあった奥州路の関名によるという説もあり、江戸期には坂名となって、汎はん称しようとして用いられたようだ。
一八七二(明治五)年になってからは、ようやく東京府の町名・霞ヶ関になり、一九六七(昭和四十二)年の地名変更を経て、現在の霞が関といわれる地名になった。
現在は永田町とともに、日本の国政・行政をあずかる中枢が置かれる場所としてその名をとどろかせているが、ぜひともその地名の由来どおり、〝雲霞を隔てた遠方でも見渡すことができる〟ような透明性や品格高い政治・行政を、おこなってもらいたいものである。
ちなみに、この関所跡は現在も存在し、国土交通省の中央合同庁舎第二号館の桜田通り側に「霞ヶ関跡」の碑が建っている。