巌流島(がんりゆうじま) (山口県下関市)
勝ったのは宮本武蔵、名を残したのは佐々木小次郎
江戸初期、戦国乱世が終わって、せっかく磨いた武術の腕を発揮する場所を失った腕自慢の浪人は、少なからずいた。彼らは武者修行と称して各地で決闘を繰り返しながら名を上げ、運がよければ仕官への道を得ることになる。
そんな時代の武芸者のなかで現代まで名を残したのが、宮本武蔵と佐々木小次郎である。二人の決闘というはっきりした事実だけをもとに、武蔵側、小次郎側から、それぞれ小説が書かれたり映画や舞台が創作されたりして二人の人生を浮き彫りにしようとしている。
武蔵の場合、『二天記』『五輪書』などの著書から、いくらかの人生と人間性をうかがい知ることができる。しかし、一方の小次郎は生年も生地も不明で、武蔵と決闘したとき、豊前小倉藩細川家で剣術指南役を務めていたらしいことだけがわかっている。
二人の決闘がおこなわれたのは、関門海峡に浮かぶ小島だ。ここは「巌流島」として知られているが、正式な地名は「船ふな島しま」という。
いまでは武蔵と小次郎の決闘にちなむ記念碑が建てられ、船が周遊して接岸もできる観光地だ。しかし、二人が決闘した当時は無人島。見届け役の細川家家臣が立ち会うだけで、見物人などの野次馬を入れないための選択だったと伝えられている。
決闘がおこなわれたのは、記録によれば一六一二(慶長十七)年四月十三日で、結果は誰もが知るとおり、武蔵に軍配が上がった。
しかし、「小次郎、敗れたり!」という、芝居などでおなじみのセリフどおりの結果に終わったものの、敗れてしまった小次郎のほうが、「身を捨てて名を取った」形となっている。
というのも、決闘場所となった船島の名が巌流島と名付けられたのは、彼の剣術がじつは、「巌流」と称するものだったからである。