大垣(おおがき) (岐阜県大垣市)
川の氾濫に由来する、住民たちの過酷な歴史を伝える地名
伊吹山や養老山地を望む大垣市は東を揖い斐び川、南を牧田川、西を相川という三本の川に囲まれ、市域にも杭瀬川、水門川など一三本もの流れが南へと下っている。
そのため、この地は昔から「水すい都と」とも呼ばれてきたが、この名はけっして山紫水明の土地の姿をあらわすものではない。多くの流れは、しばしば洪水の原因となり、住民たちを悩ませてきたのである。
中世以降、住民たちは治水のための知恵を働かせるようになる。川の土手に高い堤防を築き、堤防に囲まれた土地を水害から守ろうとしたのだ。その土地が輪わ中じゆうと呼ばれる、この地域独特の地形である。
それでも揖斐川は大量の土砂を運んで川床を高くしたため、江戸時代の大垣藩は、治水が最優先の藩政だったという。
その藩名ともなった「大垣」という地名は、悩まされつづけた治水工事がもたらした名前なのだ。
古代から「オオガキ」と呼ばれていたこの地は、もともと大きな柿の実の産地だったことから「大柿」という字があてられていた。室町時代中期の一三四〇(暦りやく応おう三)年の史料にも、大柿という地名が記されている。
それが大垣に変わったのは、そのあとに大規模な治水工事がおこなわれたためと考えられる。おそらく、高い垣根のような堤防が築かれたに違いない。