生野(いくの) (大阪府大阪市)
聖徳太子にわが子の危機を救ってもらった生野長者
大阪市生野区の「生野」という地名の由来は、いまからはるか昔、約千四百年前の推すい古こ天皇の時代にさかのぼる。
この地に、生野長者という裕福な長者がいたが、なかなか子宝に恵まれなかった。
長者はあちこちの神社に祈願をして、ようやく子どもを授かることができたのだった。
だが、その子どもはなぜか言葉を話すことができなかった。長者は思い悩み、四天王寺にお参りをして聖徳太子にすがったところ、太子は子どもに向かってこのように言った。
「私が前世でお前に預けた三つの仏ぶつ舎しや利りを、いま返しなさい」
その子どもは前世で、太子の侍じ童どうだったのだ。子どもは太子に言われたとおり、三粒の仏舎利を吐いて太子に奉たてまつると、無事、言葉を話すようになったという。
そして、聖徳太子はその仏舎利の一つを法隆寺に、もう一つを四天王寺に納め、そしてもう一つを長者に与えた。
長者は大いに喜んで、「舎しや利り寺じ」と名付けてこの仏舎利を奉ったといわれている。
この伝説にちなんで、一八八九(明治二十二)年には、国分村・舎利寺村・林寺村・林寺新家村・田島村が合併して「生野村」ができ、そして一九四二(昭和十七)年には「生野区」となることが決まって、翌年の四月に東ひがし成なり区から分かれて生野区が誕生したのである。