「さあ、できたぞ」警部はいった。「この円はアイフォードから半径十二マイルのところ
を示している。われわれの探している場所も、このラインの近くにあるはずだ。たしか十
二マイルとおっしゃいましたな、ハザリーさん」
「馬車で一時間あまりかかりましたから」
「それで、気を失っているあいだに、もとの場所まで運ばれてきたというんですな?」
「そうにちがいありません。おぼろげな記憶があるんです。持ち上げられて、どこかへ運
ばれていたような」
「どうもわからないんだが」ぼくがいった。「なぜ連中はハザリーさんが庭で倒れている
のを見つけたとき、殺してしまわなかったんでしょうね? 大佐が女性に泣きつかれて情
をかけたんですかね」
「それは考えられません。あんな冷酷な顔はいままで見たこともありませんから」
「まあ、いずれあきらかになる」警部がいった。「さあ、円も描いたことだし、あとはわ
れわれの探している者たちが、どの方向にいけば見つかるか、だ」
「それならわたしが教えてさしあげられると思いますよ」ホームズがおだやかにいった。
「なにっ! もうわかってるのかね」警部は驚いた。「では、われわれのうち、だれが
ホームズ君と同意見か、見てみようじゃないか。わたしは南のほうだな。そっちのほうが
寂しいところだから」
「わたしは東です」ハザリー氏はいった。
「いや、西だと思います。そっちにも静かな小さい村がいくつかありますから」刑事が意
見を述べた。
「北でしょう」ぼくはいった。「北には丘がないし、ハザリーさんは馬車が坂をのぼった
ような感じはなかったといいますから」
「これはまた意見が分かれたな。東西南北、よりどりみどりだ。ホームズ君はどの意見に
賛成だね」警部が笑いながらいった。
「どれもちがいます」
「それはないだろう」
「いいえ、それがあるんです。わたしの意見はここです」ホームズは円の中心を指でさし
た。
「しかし、十二マイルの道のりはどうなるんです?」ハザリーが息をのんでいった。
「六マイルいって六マイル帰ってくる。単純なことですよ。ハザリーさん自身がおっ
しゃってたでしょう。馬は元気で毛並みもつやつやしていたと。もし十二マイルもがたが
た道を走ってきたなら、そんなはずはないでしょう」
「たしかに、そういう策略だったのかもしれん」ブラッドストリート警部は考え込んだ。
「やはり、この連中の悪賢いことといったら、もう疑いはないな」
「まったくそのとおりです。やつらは大がかりな偽金造りをやってるんですよ。圧搾機
は、銀の代わりとなる合金をつくるために使っていたんでしょう」ホームズがいった。
「しばらく前から、悪賢い一味が偽金をつくっていることはわかっていた。半クラウン銀
貨の偽物を何千枚とつくっている。警察ではやつらの足跡をレディングまで追跡していた
が、それ以上はわかっていなかった。姿のくらまし方からいって、相当したたかな連中
だ。しかし思わぬチャンスがやってきたな。これでやつらをつかまえたも同然だ」
しかし警部はまちがっていた。というのも、これらの極悪人は、当局の手に落ちること
はなかったからだ。われわれがアイフォードの駅に到着したとき、大きな煙の柱が近くの
木立の向こうから立ちのぼり、巨大なダチョウの羽のように村の上空に広がっていた。
「火事ですか?」列車が煙を吐いてふたたび動きだしたとき、ブラッドストリート警部が
たずねた。
「そうです」駅長が答えた。
「いつからです?」
「夜のうちに燃えはじめたらしいですよ。どんどんひどくなって、もう全焼です」
「だれの家です?」
「ビーチャー博士です」
「もしかして」と水力技師が口をはさんだ。「ビーチャー博士というのはドイツ人じゃな
いですか? すごくやせていて、鼻のとがった?」
駅長はおもしろそうに笑った。「いいえ、ビーチャー博士はイギリス人ですよ。それ
に、この近所でビーチャー博士ほど恰かつ幅ぷくのよい人物はいませんな。しかし博士の
家にいる男性は、たぶん博士の患者だと思いますが、外国人だし、わが州特産の牛肉で栄
養をつけてはどうかと思うくらいやせてますよ」
駅長の話が終わらないうちに、われわれは全員、火事の方角へ駆けだした。低い丘の頂
にさしかかったところで、幅の広い白塗りの大きな建物が正面に見えてきた。すきまとい
うすきま、窓という窓から炎が噴き出している。前庭には三台の消防車がいて、火を消そ
うとがんばっているが、どうも効果はないらしい。
「あれだ!」ハザリーは興奮して叫んだ。「砂利道があるし、バラの茂みもある。ぼくは
あそこに寝ていたんだ。あの二つ目の窓、あそこから飛び降りたんだ」
「なるほど」ホームズはいった。「少なくともあなたは、連中に仕返しはできたようです
ね。あなたのランプが圧搾機で押し潰つぶされたとき、木の壁に火がついたんでしょう。
連中はあなたを追っかけるのに夢中になっていて、それに気がつかなかった。いまこのや
じ馬のなかに、ゆうべのあなたの連れがいないかどうか、よく見てください。まあ、わた
しの予想では、やつらはとっくの昔に遠くへ逃げてしまっているでしょうがね」
ホームズの予想はあたっていた。その日から現在まで、あの美しい女性も、不気味なド
イツ人も、むっつりしたイギリス人も、まるで行方がわからない。その朝早く、ひとりの
農夫が馬車を目撃していた。何人かの人間ととても大きな箱をいくつも積んで、レディン
グの方向へ向かっていたという。しかしそこで逃亡者たちの足跡はぱったりと途絶え、
ホームズの才能をもってしても、連中の行方についてはなんの手がかりもつかめなかっ
た。
消防士たちは建物の内部の奇妙なしつらえに驚いていたが、二階の窓の敷居の上に、切
断されたばかりの人間の親指を見つけて、さらにびっくりした。日が暮れるころには消火
の努力もようやく功を奏し、火はおさまった。しかしその前に屋根が落ちて、家全体が完
全に崩壊した。われわれの気の毒な客にあんなにひどい犠牲を払わせた機械も、数本のね
じ曲がったシリンダーと、鉄製のパイプ以外は、影も形もなくなってしまった。大量の
ニッケルとスズが納屋に貯蔵されているのが見つかったが、偽金は発見されず、先に目撃
された大きな箱になにが入っていたかも、これで説明がついた。
水力技師が庭から意識を取りもどした場所までどうやって運ばれたかは、永遠の謎とし
て残るところだったが、庭の土がやわらかかったおかげで、簡単な説明がついた。技師は
どうやら二人の人間によって運ばれたらしく、そのうちのひとりの足跡はきわめて小さ
く、もうひとりの足跡は非常に大きかった。いろいろと考え合わせると、おそらくあの
むっつりしたイギリス人が、仲間のドイツ人とくらべると比較的気が小さく、凶暴でもな
かったため、あの女性が気を失っている技師を危険のない場所まで運ぼうとしているのを
手伝ったのだろう。
「やれやれ」ロンドン行きの列車に乗り込んだとき、技師は沈み込んでいった。「とんで
もない目に遭いましたよ! 親指はなくしたし、五十ギニーの報酬も取りそこなった。な
んにも得るところがなかったんだ!」
「経験があるじゃないですか」ホームズが笑いながらいった。「すぐに金には結びつかな
くても、経験は価値あるものです。あなたはこれから一生、今回の経験を話すだけで、お
もしろい話し相手だという評判を得ることができますよ」