エメラルドの宝冠
「ホームズ、おかしな男が歩いてくるよ。あんな男のひとり歩きを身内の者がほったらか
しにしているとは、けしからんな」ある朝、ぼくは張り出し窓の前に立って、通りを見下
ろしながらいった。
ホームズはだるそうに肘ひじ掛かけ椅い子すから立ち上がると、両手をガウンのポケッ
トに突っこんで、ぼくの肩越しに外を見た。明るくさわやかな金曜日の朝で、きのう降っ
た雪がまだ地面に厚く積もり、冬の日差しに照らされて、きらきらと輝いていた。ベイ
カー街の通りのなかほどは、馬車の往来で雪が混ぜ返され、ぐじゃぐじゃの茶色い帯に
なっているが、その両脇と、歩道の端の雪が積みあげられたあたりは、降ったばかりのよ
うにまだ白いままだった。灰色の歩道はきれいに雪かきがすんでいたが、まだひどくすべ
りやすく、そのせいか、ふだんより歩いている人が少なかった。じっさい、地下鉄の駅の
ほうから歩いてくるのは、奇妙なしぐさでぼくの目を引いたあの紳士だけだった。
五十がらみのその紳士は背が高く、恰かつ幅ぷくもよくて、目鼻立ちのはっきりした大
きな顔をしていた。地味だが上等な服装をしていて、黒いフロック・コートに真新しいシ
ルクハット、こぎれいな茶色の深靴、仕立てのよいパールグレーのズボンといったいでた
ちだ。しかしその行動は、堂々たる容姿や服装とまったく調和していなかった。必死で走
りながら、ときどきぴょんぴょん飛び跳ねているのだが、そのさまは、ふだんから足に負
担をかけることに慣れていない人間のように見えた。しかも、走りながら両手をあげたり
おろしたり、頭を振ったり、顔をめちゃくちゃにゆがめたりしている。
「いったいどうしたんだろう? 建物の番地を見ているようだぞ」ぼくはいった。
「きっとここへくるよ」ホームズは両手をこすりあわせながらいった。
「ここへ?」
「そう。ぼくに相談があるんだろう。そういう感じがする。ほら! いったとおりだろ
う?」ホームズがそういったとき、男がハアハアと息せき切って、うちの玄関へ突進して
きた。呼鈴のひもを、家中にベルが鳴り響くまで引っぱり続ける。
まもなく男はぼくたちの部屋に入ってきた。まだ息を切らしておかしなようすをしてい
るが、その目には深い悲しみと絶望が張りついていた。それを見て、出迎えたぼくたちの
笑顔もたちまち消え、恐怖と憐あわれみに取って代わった。しばらくのあいだ、男はしゃ
べることができず、体を揺らして髪をかきむしっていた。まるで瀬戸際まで追いつめられ
ているかのようだ。そのあと突如立ち上がって、自分の頭を力まかせに壁に打ちつけはじ
めたので、ぼくとホームズはあわてて駆けよって、男を部屋の真ん中まで引き戻した。
ホームズは男を安楽椅子にすわらせ、自分もそのかたわらにすわった。男の手を軽くたた
きながら、彼が得意とする、やさしくなぐさめるような口調で語りかけた。
「なにかお話があってこられたのですね? お急ぎになったので疲れたでしょう。まず、
ゆっくりなさって、落ち着いてください。そのあと、どんなことでも、ご相談ください。
喜んでお力になりますから」
男はしばらくのあいだ、胸を大きく上下させながら、高ぶる感情を抑えようとしてい
た。それからハンカチで額をぬぐうと、唇をぎゅっと結んで、ぼくたちのほうを見た。
「わたしのことを、変な男だと思われたでしょう」
「なにかたいへんな心配事がおありだと感じました」ホームズが答えた。
「ありますとも! 正気を失うくらいの心配事です。あまりにもとつぜん、ひどく恐ろし
いことが起きたのです。これまでわたしは、自分の名誉を少しでも汚したことはありませ
んが、たとえ社会的な名誉が傷つけられても、耐えることはできたでしょう。また、個人
的な悩み事はだれしも免れ得ないことです。しかし、その二つがいっぺんに、しかも恐ろ
しい形で襲ってきたのです。気が変になってもしかたないでしょう。それに、事はわたし
だけの問題ではないのです。この国の最も高貴な方々にまで累が及ぶかもしれないので
す。なんとかこの恐ろしい事態に手を打たなければ」
「どうか落ち着いてください」ホームズがいった。「まず、あなたがどなたなのか、お教
えください。それから、あなたの身に何が降りかかったのか、お聞きしましょう」
「わたしの名は、あなたもお聞きになったことがあるでしょう。スレッドニードル街の
ホールダー・アンド・スティーヴンスン銀行のアレグザンダー・ホールダーです」
その名前はたしかになじみ深いものだった。シティで二番目に大きい銀行の頭取の名
だ。いったいどういうわけで、ロンドンでも一流の市民が、こんなみじめな状況におち
いったというのだろう。ぼくとホームズが興味津々で待ちかまえていると、男はなんとか
気力を振りしぼって話しはじめた。
「一刻も無駄にできないと思ったのです。ですから、あなたに協力を求めるように警部さ
んからいわれて、急いで飛んできたのですよ。地下鉄でベイカー街ストリートの駅までき
て、そこからは徒歩できました。この雪では馬車はゆっくりしか走れませんから。あんな
に息を切らしていたのはそういうわけです。ふだん運動などほとんどしませんからね。だ
いぶ気分がよくなってきたので、できるだけ手短に、わかりやすく事実をお話ししましょ
う。
ご存じのことと思いますが、銀行がうまく商売をやっていくには、資金運用のために有
利な投資先を見つけることが、得意先や預金者を増やすことと同様、非常に重要なので
す。うちの銀行の最も有利な投資法のひとつが、しっかりした担保のあるところにお金を
貸す方法です。われわれはここ数年、その方法でたくさんの取引を行い、多くの貴族の
方々に、所蔵されている絵画や蔵書、貴金属を担保として、多額の資金を用立ててまいり
ました。
きのうの朝、わたしが銀行の頭取室におりますと、行員が一枚の名刺を持ってきまし
た。わたしはその名刺を見て、肝をつぶしました。そこにはだれあろう──いや、たとえあ
なたにでも、実名は申せません。世界中のだれもが知っている、イギリスでも最も高貴
な、最も尊いお名前のひとつだったとだけ申しておきましょう。わたしはあまりの栄誉に
感極まって、ご本人が部屋に入ってこられた際に、そう申し上げようと思ったのですが、
その方はすぐさまご用件に入られました。まるでいやな仕事をさっさと片づけたいと思っ
ていらっしゃるようなごようすでした。
『ホールダー君、きみはお金を用立ててくれると聞いてきたのだが』とおっしゃいます。
『わたくしどもの銀行では、担保が十分であれば、お金をご用立ていたしております』
『どうしても五万ポンド、すぐに必要なのだ。もちろん、それくらいの金は、十倍でも友
人から借りることができる。だがわたしとしては、事務的な取引として、自分で用立てた
ほうがずっと助かるのだ。きみにもわかるだろうが、わたしのような地位にある者が、人
に借りをつくるのは好ましいことではないのだ』
『おそれながら、どのくらいの期間、ご用立てすることになりますでしょうか?』
『来週の月曜日に大きなお金が入ってくることになっているから、そのときにかならず返
せると思う。もちろん、そちらが正当に受け取るべき利子も添えてだ。しかし、どうして
も、いますぐに金を用意してもらわないと困るのだ』