もの書きは、誰もその経験を持つと思われるが、見知らぬ人とか、講演や、なにかの会で話しかけられた人などから、自分の作品を読んでもらいたいと分厚い原稿の束を送りつけられることがある。
もちろん、その時間はないから、事情を書いた手紙を添えて、送り返すのだが、ふうと、ため息を吐く。
今、やっている仕事が、この原稿くらいの厚さだったらなァ、と情けないことを思うのである。
よくよくの仕事嫌いだなあ、と我ながら呆《あき》れる。好きで文章を書いていた時代もあった。ずっと以前のことである。
中学一年のときに、『少年クラブ』に詩を投稿して載せてもらった。数年前、友人が、それを見つけ出して、持ってきてくれた。
感激したなあ。ほぼ半世紀前のものですからね。
戦災孤児ものといわれた菊田一夫のラジオドラマ『鐘の鳴る丘』に入れこんで、自分も、そんなストーリーを、せっせと書いたことを覚えている。
ああいう時代に戻れないかしら。
好きなものほど、それが仕事となると苦痛になるのだろうと思っていたら、それは人さまざまであることを知った。
子どもの本の学校かなにかで、神沢利子《かんざわとしこ》さん、角野栄子《かどのえいこ》さんといっしょになった。
三人が、それぞれで面白かった。
書くのが楽しくて仕方ないというのが『魔女の宅急便』の角野さん、わたしはその逆で、『くまの子ウーフ』の神沢さんは、楽しいときもあるけれど、つらいときもあるわよ、とおっしゃった。
ものを書くのはしんどいだけや、とわたしがいったら、じゃ、なぜ書いてんのよ、と角野さんにいわれた。
なぜ書いてんのかなあ。
松本清張のように、金の為と答えられるとかっこいいのだが、そうもいい切れない。
楽しいのか苦しいのかと問われれば、ものを書くのは、つらくて苦しいというしかないのだが、ものを書くことは勉強になるなァとは思う。
ぼんやり考えているのは、ただ、それだけのことだが、ぼんやり考えてることを文章にしはじめると、その、ぼんやりがだんだん明らかになってきて、ああそうか、そういうことだったのかと納得したり、さらに、まるで新しい考えが湧いてきて、組み立てた思考の上に、それが、でんと座り、ありゃ一つの世界ができちゃった、というようなことになったりもする。
小説の場合でいうと、登場人物が一人歩きしだすと、よしよし、これでなんとかなるぞとようやくペンがすべり出す。
小説を書いた者でないと、たぶん、その実態はつかめないと思うが、作中人物の一人歩きというのは、ほんとに不思議で、自分が考え、書いているのに、自分でない何かが、それをしているような気分になるのだ。
小説は、いのちの「生き様」を書くのだから、小説家はその作品の数だけ人生を生きているということになる。
そうか。それが面白いということなのか。これから、そう考えることにしよう。