国が前面に出て、何か指図するときは危ない。
日の丸・君が代の法制化を検討するという。ちょっと待ってくれ、それは……と思わず声が出た。
露骨といおうか、無神経というかガイドライン関連法案を上程しようとし、そして、こういうことを言い出すのだから、わたしは自分の国のことより、かつて日本軍に侵略されたアジアの国々の人のことを思って、暗澹《あんたん》たる気持ちになった。
一つの事実をお伝えしたい。
ピースボートで、香港の高校生と話し合いを持った。
事前に、アンケートを寄せてもらっていた。そこに、「日本は平和の道を歩んでいると思いますか。それとも軍国主義の道を、ふたたび歩もうとしていると思いますか」という設問があった。
十一人の高校生のうち、一人を除いて他の全員が、「軍国主義の道を歩もうとしている」のところに、丸をつけていたのだった。
わたしは絶句するような気分になったことを覚えている。
戦争というものの記憶は、起こされた側から見ると、これほどつよく末代まで残るものなのだ。
一つの国が、国旗、国歌を定めるのは当然のことだという考えがある。
かつて起こした侵略戦争があるばっかりに、日本にはこれが当てはまらない条件があり、まずそれを克服しなければならないことを自覚すべきだ。
国は、日の丸・君が代を通して、人々が、これらの問題をしっかり考え、議論するよう、先導的な役割を果たすことを求められているのに、やることは権力をかさにきた決めつけでしかないというのは、あまりにも貧しく哀しい。
それぞれの県の教育委員会もよく考えてほしい。
日の丸・君が代を考えようという教師には、ただたんに、それは反対だというのではなく、歴史認識、歴史教育、平和教育の側面から、もっと議論を深めたいという願いがつよい。
それは教育そのものを充実させることになるのだから、共に考え、実践しましょうという態度を示すべきではないのか。
職務命令などという、これまた、愚かしくも哀しい、本質的には蟷螂《とうろう》の斧《おの》でしかないものを振りかざして、教師を追い詰めるというのは下の下というしかない。
「従軍慰安婦」の問題すら解決できない現政府に、日の丸・君が代を法制化する資格はまったくない。
今、日本人が、さしあたってやらなくてはならないことは、遅きに失してしまっているとはいうものの、戦争責任という問題を、とことん考え議論し、それを世界の人々に、具体的行動でもって示すことである。
さいわい、この国には「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」を決意した憲法があるのだから。