新居に引っ越して早、一ヶ月が過ぎた。
今度の家は一階が道路に面した居間と庭に面したダイニングキッチン、二階がベッドルームが3つとバスルームである。メインベッドルームにはシャワーと小さな洗面台があって洗濯機もその横にある。以前は大家さんが住んでいたようで、子育てをしながら働く主婦の知恵が随所に感じられる。
一目惚れして借りた家だが、実際住み始めると意外と不具合があるものである。
まず、引っ越したら電話番号が変ってしまった。引っ越すといっても仮住まいから徒歩20分の距離なのに変るというのだ。しかも引越し日時を知らせておいたのに、新しい電話番号と配線工事のお知らせが事前に届かない。怪しみつつ引っ越すと、ずいぶん前に新居に配達されていた。大学からのお茶会のお誘いも一週間以上前に配達されている。それじゃ意味がないだろう。
水道、ガス、電気を通すのも一苦労である。夫が職場から電話している。青息吐息だ。電話は本当に難しい。専門用語というか、水道なら水道、ガスならガスの独特な言葉や言い回しがあって、そんなのは学校では習ってないのでお手上げである。対面なら身振りも交えて何とかなるのかも知れないが。
(夫の)努力の甲斐あって、水道、ガス、電気は引越し当日から使えた。週末に小旅行を控えていたので、荷物もあまり解かずに小さく暮らす。旅行から帰ってきて、メインベッドルームの洗面台のあたりが妙に湿っているのに気づいた。水周り以外はカーペットが敷いてあるのだが、そこに足を踏み入れると、足の裏がじんわりする。「?」と思ったがそのままにしておいた。
それから一階の居間の天井にしみができているのに気づいた。バスルームから水が漏れているのだろうか?バスルームをみたがそれらしい形跡はない。「?」と思ったがこれもそのままにしておいた。
荷物も少し片付いてきたので、洗濯をした。仮住まいの家では手洗いしていたのである。加えて着替えも少ししか出していなかったので、なんとなくシャツなどは垢じみている気がする。
盛大に洗濯機を回した。ベッドルームには乾燥機もある。排気管がないので部屋の中に熱気がこもるが、気候はまだ寒いのでちょうどいい。ぐるぐる回る洗濯物をそれぞれ洗濯機と乾燥機の小窓から覗いて、夫はご機嫌である。
夫は洗濯機につきっきりなので、階下の居間で本を読んでいた。突然、絵の額が壁から落ちてきた。フックが外れたらしい。戻そうとしても壁にうまくかからない。「?」と思ったがそのままにしておいた。しばらくすると夫が居間に入ってきた。と、ドアが開かない。「あれ?急にドアが重くなったぞ?」立て付けが悪いのだろうか?わけのわからないことが多い。怪奇現象だろうか?
さて、いよいよ念願の電話の設置工事である。れわれは廉価なケーブル電話を使っていて、その工事が必要なのである。引っ越して実に10日が過ぎて電話が使えることになった。電話が使えないのは別に困らないのだが、ネットに繋げないのはネット依存症の私としては致命的である。前の家なら夫の職場まで徒歩5分の道のりなので、いざとなれば通えばいいのだが、今度の家は徒歩30分である。ネットに繋ぐためだけに通うのもなんである。
実は引っ越した翌々日に一度工事の人がきたのだが、配線のために壁にびょうを打ち込むというので、いったん出直してもらった。大家さんの許可が必要だと思ったからなのだが、有能な秘書ペニーさんにきくと、その程度の工事なら特に許可を得なくても構わないという。そんな程度、って壁に線を這わせるのだからかなり大胆な工事である。
ともかく工事の人(ちなみに彼は、私たちが日本人で靴を脱いで生活しているのを見て、玄関を入るなり靴を脱いで部屋にあがってくれた気の利くいい奴である)がいる間、夫は所在なげに工事に立ち会っていたのだが、その間ぼーっと居間の天井を見ていたらしい。
工事の人が帰って「この家、よく見ると黴が生えたりして、結構ぼろいね。」という。そういえば黴が生えているのは私もなんとなく気づいていたような気がする。「?」と思ったがそのままにしておいたのだった。天井のしみが大きくなって、その部分がなんともいろとりどりの黴になっている。主にサーモンピンクである。壁にもしみができて、一部黴ている。うーーーーむ。困った。困ったが、家主さんはパリでバカンス中である。2週間も帰ってこないのだ。へたにこすってさらに汚れても困るのでこれもそのままにしておく。
週末、有能な秘書のペニーさんからお誘いがあった。ケンブリッジ郊外で行われるフラワーフェスティバルに行かない?というのである。ペニーさんの車で元英語教師マリオンさんと4人で出かけて、それぞれ山ほど花苗や園芸用品を買い込み、帰りにうちに寄ってもらった。すべて順調かどうか、ペニーさんが確かめてくれるというので、天井の黴の話をする。ペニーさんは天井と壁の黴を見るや、「ここが湿ってるわ」と壁を触る。「そうよ、2階から水が漏れているんだわ」。なるほど!だから壁の絵が落ちたんだ!どうやらかなり広い範囲に染み込んでいるようである。「この上は洗濯機だったわね。」という。あ、そうか。この真上はバスルームではなく、メインベッドルームの水周りである。ペニーさん、どうして一度しか見てない家の間取りを覚えているのだ。
早速2階にあがって確かめる。「間違いないわ、ここよ。カーペットも湿ってるし、この洗濯機から水が漏れているんだわ。」もともと水漏れしていたところに、洗濯をしたので一遍に水が染み出したらしい。
マリオンさんは、ペニーさんの背後から覗き込みながら、「それにしても、なぜこの部屋の壁はピンクなのかしら」などといっている。相変わらずいい味を出している女性である。
ペニーさんは「さぁ、なぜピンクなのか私も分からないわねぇ」などと適当にあしらいながらテキパキと現状をチェックすると、私たちに向い、一刻も早く家主さんか大学の訪問研究員協会(Visiting Scholar Society)に連絡を取って水道屋を頼むように言い置いて、夕食をおよばれしている友人の家に向かっていった。相変わらず時間をフルに使う女性である。マリオンさんによると、このままでは事態はどんどん悪くなってやがて天井が落ちてくるという。思わず「Oh, my gosh!」とつぶやいてしまう。かぶれている。
とりあえず現状は把握したが、はぁ~。気が重い。水道屋さんが来るのはいいが、彼らの話す言葉は、全然理解できないのだ。「べらんめい口調」なのだ。たぶん「てやんでぃ」とか「べらぼうめ」とか英語で言っているに違いない。