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愛人~薄暑

时间: 2017-06-26    进入日语论坛
核心提示: 薄  暑 修子の誕生日は、遠野のそれより三カ月あとの、七月の半ばの土曜日であった。 その日、修子は目覚めるとともに、自
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  薄  暑
 
 
 修子の誕生日は、遠野のそれより三カ月あとの、七月の半ばの土曜日であった。
 その日、修子は目覚めるとともに、自分が三十三歳になったことを自覚した。
 といっても、顔や姿がとくに変ったわけではない。ただパジャマのまま朝のコーヒーを飲みながら、今日で三十三歳になったとしみじみ思っただけである。
 ついにというか、いよいよというか、三十の半ばに近づきはじめたようである。
 正直いって三十歳になったときは、自分がそんな年齢《とし》になったことに驚き、かつ呆れた。これから年齢の欄に、「三十歳」と書くことを思っただけで気が滅入った。
 だがその衝撃も一年も経つと薄れ、去年あたりまでは、三十代といっても、まだなったばかりだとたかをくくっていたのに、三十三歳ではかぎりなく二十代に近いというより、三十半ばに近い。
 コーヒーを飲みながら、修子は先日、向こうの雑誌で読んだ「エイジング.コンプレックス(Aging Complex)」という言葉を思い出した。
 男も女もある年齢に達すると、その年齢にコンプレックスを抱くようになるが、女性の場合はまず二十代の後半にそれを感じ、次いで三十代の半ばからまた強く感じはじめるという。もしそうだとすると、修子はこれから本格的なエイジング.コンプレックスに悩まされることになる。そんなこと、年齢をとったら当然だと思いながら、みんなはそれをどう切り抜けていくのか気になる。いずれにせよこれで完全な三十代になってしまった。そう思った途端、修子はこれからの自分にかすかな不安を覚えた。
 はたして、このままでいいのだろうか。
 はっきりいって二十代の前半はなにがなんだかよくわからぬまま、がむしゃらにすすんできた。大学を卒《お》えてロンドンに出かけたのもこの時代で、仕事よりも目先の好奇心のままに動いていた。
 少しは自分の生き方に目標をもち、それに意図的に立ち向かえるようになったのは二十代の後半からで、そのころになっていくらか地に足がついてきた感じである。いまの外国企業の秘書という仕事についたのもこの時期で、ようやく自分の才能を発揮できる仕事にめぐりあえたようである。
 これまでの歳月は、現在の地位をうるための必要な期間であったと思えば納得もできる。
 だがこのあともいまの仕事を続けていくだけでいいかとなると、問題が残る。
 たしかにいまの仕事は女性としてはやり甲斐もあるし、給料も悪くはない。他のOL達からは羨まれるほどのいい条件である。
 だが三十半ばに近づいてみると、同じ仕事を続けていくだけでは、少しもの足りない気がしないでもない。生意気をいうようだが、いまの状態からもう一步踏み出して、なにか自主的なことをやってみたい。
 といっても近々に仕事を辞めるとか、新しい仕事を始めるということではない。
 そうした仕事のことより、修子の心の内側でなにか一つ、現状から抜け出したいと願っているものがある。それが具体的になにを表すのか、修子自身にもよくわからないが、このままでは現状に馴染むまま日常のくり返しのなかに自分が埋没しそうである。
 三十三歳の誕生日をきっかけに、なにかいま一つ熱中できるものを見付けて、自分を大きくしたい。
 そんなふうに思うのも、三十代半ばに近付いた年齢と無縁ではないかもしれない。
 
 梅雨の半ばのせいか、空は相変らず低く雲がたちこめ、鈍い朝の明りがベランダをおおっている。グルーミィな朝だが、雨が降らぬならこんな天気も悪くない。むしろ会社が休みの土曜日には、陽が翳《かげ》ったほうが気持は落着く。
 修子はしばらくベランダを眺めてから、また視線を部屋に戻した。
 正面にテーブルをはさんでソファがあり、その先にサイドボードがある。サイドボードの棚には、ワインやブランディのボトルとともに、さまざまなグラスが並んでいる。サイドボードの棚の上には、エナメル仕上げのティファニーの置時計があり、その横に縦長の花瓶が並び、白いカラーの花が三本挿し込まれている。さらに棚の端には昨夜までつけていた指輪とイヤリングが入ったクリスタルのバスケットが輝いている。
 リビングルームは十畳間だが、他にはキッチンへ続くコーナーに二人用の白木の食卓テーブルがおいてあるだけで、あとは入口の近くに電話台があるだけである。
 女の友達は、「男の部屋みたい」というが、修子は縫いぐるみや人形などで飾った部屋はあまり好きではない。それらがあるとたしかに女らしいかもしれないが、見方によってはくどくて、雑然とした感じになる。それよりも、部屋の調度はあっさりとして、清潔なほうがいい。壁も、ソファのうしろにバラディエの少女の坐像が一枚かかっているだけで、あとは淡いベージュ一色である。
 よく見ると女が生活していることはわかるが、家庭の匂いはしない。
 その静かですっきりした部屋のなかでコーヒーを飲みながら、修子は昨夜、母と電話で話したことを思い出した。
 いつものことだが、母は修子の誕生日を覚えていてくれて、週末に実家に帰るように電話をよこしたのである。誕生日に、たまに母と二人で過ごすのもいいと思ったが、その日は、遠野と小さな旅行へ出かける約束があった。
「お盆に、まとめて帰るわ」
 そう答えて雑談していると、母がなに気なくつぶやいた。
「わたしら、あんたの年頃には子育てで手一杯だったけどね」
 修子は、いつもの母の愚痴のようなつもりできいていたが、考えてみると、修子の年齢のとき、母はすでに三人の子供がいたことになる。もっとも、いまでは三人も子供がいる家庭は珍しく、修子の大学時代の友達でも子供がいても一人か二人までである。
「子育て以外に、考えたことはなかったの?」
「考えようにも、子供がいるとそんな暇はなかったから」
 母の言葉をききながら、修子は子供がいる友人の顔を思い浮かべてみた。
 当然のことながら、彼女らは結婚しているため独身の修子とは話題もあわず、親しく際《つ》き合ってはいない。それでも二カ月前に渋谷で偶然会った友人は子供の手を引きながら、つい数日前に自分の誕生日がきたことも忘れていたと話していた。
 その女性の屈託のない表情には、年齢をとったことを憂えている気配はなく、それどころか「早くこの子が学校に行くようになってくれれば」と、目を細めながら子供を見詰めていた。
 そういう情景を見ていると、子をもつ母親は年齢をとることがさほど苦痛ではないのかと思う。多分、自分の年齢のことよりは、ひたすら子供が大きくなることを望んでいるようである。
 母や女友達の言葉を思い出すうちに、修子はますます自分の生き方がわからなくなってくる。
 現在、自分にもっとも合っていると思う仕事をしながら、いま一つ満たされない部分があるのは、やはり結婚をしていないからなのであろうか。結婚して子供をもてば、もう少し生活も充実して年齢をとる焦りも消えるのかもしれない。
 考えているうちに、修子はふとワインを飲みたくなった。
 どういうわけか、このごろ部屋に一人でいるとワインを飲みたくなることがある。味がどうこうというより、暢《の》んびりと一人でグラスを傾けているのが心地いい。
 修子はキッチンの戸棚から昨日の残りのフランスパンをとり出し、薄切りにしてキャビアをのせた。ワインは先日、社長からもらったボージョレの赤で、一つだけあるクリスタルのワイングラスに注ぐ。
 独身の楽しさは、朝からこんな時間をもてることである。そのままキャビアをのせたパンの薄切りをつまみに飲むうちに、修子は少し酔ってきた。
 なにやら、身内から熱いものがほとばしるような感じとともに、新しい勇気が湧いてくる。
「わたしも、結婚して子供を産もうかしら……」
 なに気なくつぶやいてから、修子は慌ててあたりを見廻す。
 誰かが近くで囁《ささや》いたように思ったが、むろんまわりには誰もいない。ティファニーの時計も、白いカラーの花もクリスタルのバスケットも、起きたときのまま女一人の部屋のなかで静まり返っている。
 修子はさらにワインを飲み、それからいまの言葉をもう一度|反芻《はんすう》してみる。
「結婚して、子供を産もうかしら」
 いままでも、そのことを考えないわけではなかった。親しい友達が結婚したり、実家の母に会う度に結婚のことを真剣に考えたが、なにか自分にそぐわぬような気がして振り捨ててきた。とくに遠野と親しくなってからは、それは遠い夢なのだと決めつけてきた。
 だが、いまつぶやいてみると、ごく自然に心のなかに響いてくる。とくにそれを望んだり、憧れているわけではないが、結婚することを当然と思いこんでいる自分が、しっかりと自分のなかに居坐っている。
「やっぱり、普通の女の子と同じように……」
 修子はこれまで自分のやりたいことを、普通にやってきただけだと思っていた。
 だがいま、「普通の女の子と同じように」とつぶやいてみると、いままでの生き方が普通の生活ではなかったように思えてくる。
 一体、どちらが本当の自分なのか。
 どうやら修子のなかで、普通の女の部分と、そうでない部分とが共存しているようである。
 これまでは、結婚や子供を産むことにあまり積極的ではない、普通の女性とはやや違った修子が中心を占めていたが、三十三歳になったのをきっかけに、普通の修子が頭を擡《もた》げてきたのかもしれない。
 修子はグラスの中で揺れるワインを見ながら、改めて自分がいま切実に子供を産みたいと思っていることを実感する。
 それは頭で考えた結果というより、修子の体のなかから湧き起こってきた自然の欲求で、理屈というより女の本能的な願いのようでもある。
「せっかく、女に生れてきたのだから……」
 修子の頭の中にまた母の言葉が甦ってくる。
 たしかに女と生れて、子供を産む能力をさずかっている以上、産むのが自然なのかもしれない。それはすでに備わっているものを利用するのだから、誰に非難されることでもない。
 でももし産むとしたら、そこまで考えるとごく自然に岡部要介の顔が浮かび上ってくる。
 あの人と結婚して、そこまで考えて修子の思考は突然止る。
 もし子供を産むとしたら、あの人と結婚してあの人の妻にならなければならない。しかも生れてくる子はあの人の血を半分受け継いでいる。
 いま、要介に結婚してくれるように頼んだら、彼は簡単に受け入れてくれそうである。この確信は、修子にいつもある安心と余裕を与えてくれる。
 だがその最後の切札を、ここで使っていいのだろうか。それではあまりに安易で身勝手すぎはしまいか。
 さらにワインを飲み、グラスのなかの深紅色を眺めていると電話のベルが鳴った。
 瞬間、自分の心を見透《みす》かされたような気がして呼吸を整え、それから受話器をとると遠野の声だった。
「寝ていたのか?」
「起きていたわ、どうして」
「なかなか出なかったから……」
 遠野はそこで声を少し大きくした。
「誕生日おめでとう。ついにゾロ目になったね」
 三十三を、三が二つ続くからゾロ目といっているらしい。
「ところで今日は三時ごろにそちらに行くから、準備をしておいてくれ」
 以前から、遠野とは誕生日に箱根へ泊りがけで行く約束になっていた。
「ホテルは土曜日で混んでいたが、湖の見えるいい部屋をとれた。修のマンションを三時に出れば、遅くても五時には着くだろう。まだ明るいから芦ノ湖のスカイラインを廻ってもいい」
 遠野はそこで、修子が返事をしないのに気がついたらしい。
「どうしたんだ、誰かきているわけじゃないんだろう」
「一寸、ワインを飲んでいたので」
「とにかく三時に行くから。雨は降らないと思うけど山のなかだから、簡単な雨具くらいは用意したほうがいいかもしれない」
 遠野はそれだけいうと、「じゃあ、あとで」といって電話を切った。
 修子は再びソファに戻り、飲みかけたグラスを手にした。
 偶然だろうが、結婚して子供を産むことを考えているときに、遠野から電話がかかってきた。むろん遠野は、修子がそんなことを考えていたとは知るわけもない。それどころか誕生日に箱根にドライブすることで、修子は満足すると思いこんでいるようである。
 実際修子のほうも、遠野からその計画を教えられたときには即座にうなずいた。自分の誕生日のために、箱根まで行ってくれる彼に感謝をしてもいた。
 その当の本人が、誕生日の朝になると別の男性と結婚して子供を産むことを考えている。
 修子は自分の気持の変りように驚いた。一夜寝て起きただけで昨夜とはまるで別のことを頭に描いている。
 だが考えてみると、誕生日毎に気持が揺れるのが年齢《とし》をとった証《あかし》なのかもしれない。
 このところ、三十になって少し諦めがつき、仕事にも熱中できて気持も安定していると思っていたが、その安定は見せかけだけだったのかもしれない。いままであまり戸惑うことがなかっただけに、そのゆり戻しが三十三歳の誕生日をきっかけに、表れてきたのかもしれない。
 箱根にだけは、すべてを忘れて楽しく行ってこよう。
 いずれにせよ、いまの修子の気持の揺れは、遠野に話したところでわかってもらえそうもないし、自分でもうまく説明する自信はない。
 
 約束の午後三時に、遠野は修子のマンションに現れた。
 もともと、遠野は時間にあまり正確な男ではない。外で待合わせをしても、十分や二十分は平気で遅れてくるし、家で待っているときは一時間以上遅れてくることもある。
 その度にいろいろといいわけをいうが、理由はともかく、本気でくる気さえあれば時間までにこられるはずである。それを毎度のように遅れてくるのは、性格がルーズだからである。
 そのことをいうと、「そうでもないんだがなあ……」と首を傾《かし》げながら、たいして悪いことをしたと思っている様子でもない。
 もしかすると遠野は、遅れてくるのは優しさのせいだ、といいたいのかもしれない。
 修子が一人で待っているのが淋しいだろうと思って、つい無理をして早目の時間をいってしまう。そして結局は遅れて謝ることになる。最近は遠野のそんなやり方に慣れて、修子も二、三十分はサバを読むようになってきた。
 もっとも修子は、遠野の時間のルーズさをさほど不快に思っているわけではない。慣れてしまえばあまり気にならないし、ほどほどのルーズさのある男のほうが気は楽である。
 そのルーズなはずの男が、約束の時間どおりに現れたのである。
「もうすぐ出られる?」
 マンションの入口のインターホンからいきなりきかれて、修子は慌てた。
「一寸、待って下さい。あと十分か二十分……」
 遠野は車の中で待っているというので、修子は急いで洋|箪笥《だんす》の前に立った。
 箱根への一泊の旅なので、動き易い服にしようと思ったが、遠野から「ホテルのいい部屋がとれた」ときいて気持が変ってしまった。
 箱根の山へ行くといっても一流のホテルで夕食をとるのだから、やはりラフな服装はおかしいかもしれない。迷った末、昨夜から考えていた白い麻のコートドレス風のワンピースを選ぶ。これなら細身のシルエットの線がきれいに出るし、タキシード風の衿元にも品格がある。服を着てから、パールの二連のネックレスと白と黒の太めのブレスレットをつけて鏡でたしかめる。
 部屋のカーテンを閉めて鍵をかけ、スーツケースとハンドバッグを持って降りていくと、マンションの前に遠野の車が停っていた。
「ご免なさい……」
 謝りながら助手席に乗り込むと、遠野がうなずく。
「今日の服はなかなかいい」
 もともと遠野は派手なファッションを好まない。女性の服装はフェミニンでシンプルで、エレガントなのが良し、という意見である。自分の会社でつくる広告写真なども、そういう雰囲気の女性を登場させる。
 修子はとくに遠野の好みに合わせて選んだわけでなく、どちらかというと地味な自分の顔にはシンプルな服装のほうが似合うと思ったからである。
「じゃあ、行くぞ」
 遠野はハンドルを握ってから、思い出したようにいう。
「一緒に遠出をするのは久し振りだ」
 たしかに二人で車で出かけるのは、去年の暮、二人で西伊豆まで行って以来である。
「大丈夫でしょうね」
「もう三十年もハンドルを握っているのだ」
 修子は、遠野の車には何度も乗っているが、ときに強引に追越しをかけるときがある。年齢に似合わぬ無謀さだが、注意をすると「ベテランなのを知らないのか」といい返される。
「わたしと一緒に死んでは、大変でしょう」
「死んだら、なにもわかりゃしない」
 そんな会話を交しているうちに、車は用賀のインターから東名高速に入る。
 相変らず梅雨もよいの空だが、土曜のせいか上下車線とも混んでいる。その右端の追越し車線を強引なハンドルさばきで飛ばしていく。
「ハッピー.バースデー」
 突然、遠野が顔を近付けてくる。
「もう、ハッピーという年齢じゃないわ」
「しかしまだ若い。女が美しくなるのは三十からだよ」
「そういって下さるのは、あなただけだわ」
「大体、女の二十代というのは誰でも美しい。二十で美しくなければ余程ひどい。三十代からが本当の勝負で、ここから先は際《つ》き合っている男によっても違ってくる」
「よろしく、お願いします」
 修子が頭を下げると、遠野がにやりと笑う。
「任しておいてくれ」
 修子はうなずきながら、今朝起きがけに要介との結婚を考えていたことを思い出す。
 あのときは素直に、結婚して子供を産むことを考えていたのに、いまはそんなことは忘れて、美しい三十代の女になることだけを考えている。自分でも呆れるほど、一日のなかでころころと気持が変る。
「誕生日のプレゼントがあるんだけど、夜の食事のときでいいだろう」
「いつでも結構ですけど、なにを下さるのですか?」
「当ててごらん、一つは当るかもしれない」
「二つも下さるのですか」
「もう一つのほうは、絶対に当らない」
「まさか、お婆さんになる玉手箱じゃないでしょうね」
「お婆さんと、満更、縁がないわけでもない」
 遠野の冗談をききながら、いまの修子は素直にスピードを楽しんでいる。
 
 ホテルの部屋は広めのダブルで、壁は淡いベージュで統一され、奥のベランダからは静まり返った湖が見下せる。雲がなければその先に富士の頂きが見えるらしいが、いまは湖をとり囲む緑の斜面まで低く雲が垂れこめている。
 案内してくれたボーイが去るのを待って、二人はベランダへ出てみた。
 まだ夕暮れには少し間があるが、山の大気が冷たい。
 部屋から見える湖は芦ノ湖の湖尻《こじり》に近く、遊覧船もここまでは入らず、鱒でも釣るのか、小舟が二隻、糸のような航跡を残していく。
 ベランダの右手は杉の樹立になって山が迫り、左手は湖にそって開け、芝生を散策している人々が見える。曇っているので芦ノ湖を見下すスカイラインを走ることはあきらめたが、雲におおわれた湖もそれなりに風情がある。陽が翳《かげ》り、湖面は灰色に沈んで、湖はいつもより妖しさを増しているようである。
 二人はそのままルームサービスでコーヒーをとり、ベランダのテーブルで飲んだ。
 姿は見えないが右の山際で郭公《かつこう》の声がし、それにときたま芝生を散策する子供達の声がまじる。
「こういうところで、しばらく暢《の》んびりしていたい」
 遠野が山の大気のなかで煙草を喫《す》う。
 半月前から、遠野がある大手の電器メーカーのイベントの企画をとるために駆けずり廻っていたことを修子は知っていた。その仕事をとれるか否かは遠野の会社の死活に関わるとかで、この数日の遠野の顔の疲れは、その心労のせいに違いない。
 できることなら修子は遠野の仕事を手伝ってやりたいが、そのことを遠野に申し出たことはないし、遠野も修子に頼んだことはない。
 互いに助け合いたい気持はあっても、相手の仕事にまでは踏みこまない。仕事の内容を話して意見をきくことはあっても、具体的に手をかすことはない。そのあたりのケジメは、修子が遠野の家庭にタッチしないのと似ているかもしれない。
 見方によっては冷たく見えるかもしれないが、助けを相手に求めたときから、二人はかぎりなく甘えそうである。その瞬間から一種の運命共同体になり、どこまでものめりこむかもしれない。そんな状態だけは避けたいという気持が、二人のあいだで仕事の話を少なくさせている原因かもしれない。
「忙しいのに、わたしのために、こんなところまできてもらって、悪かったわ」
「そんなことはない。修の誕生日を祝うというのは口実で、本当はここにきて、休みたかったのだ」
「でも今日は土曜だから、家でも休めたでしょう」
「東京を離れて、修と一緒だから憩《やす》まるのだ」
 修子はふと、遠野と自分がいつになく近付いているのを感じる。最近のどの時間よりも、いまは互いの気持を思いやり、かばい合っている。
 そんな優しさに、修子は和《なご》みながら少し怖いとも思う。
 
 夕食はホテルを離れて、小高い丘の上にある洋館のステーキ専門店に行くことにした。
 土曜日のせいでホテルのダイニングルームは混んでいたので、この選択は正しかったようである。
 夕方、少し雨がぱらついて道路も草も濡れていたが、二人が洋館に着いたときは雨はすでにやんでいた。しかし相変らず雲は低く、山裾から霧がわいてくるのが、夜目でもわかる。
 丘の上のレストランは湖畔の夜景を楽しむためにつくられたのだろうが、流れる霧にさえぎられて、湖はもちろん、周りに建ち並ぶホテルも和風の建物もよく見えない。
 だがかわりに眼下の誘蛾燈やホテルの明りが霧にぼやけて、晴れた夜とは別の風情がある。
 修子は遠野と一緒に、キャビアのカナッペとビーフコンソメを頼み、肉はフィレにする。
 シャンペンは少しお腹が張るが、遠野はお祝いだといって一本抜く。
「おめでとう」
 グラスを合わせ、目を交しながら、修子は改めて安らぎを覚える。
 東京を離れて、二人だけで霧のなかにいるせいか、ここだけはまるで別天地のようである。
 修子はこんなロマンチックなレストランで、遠野と二人だけで誕生日を迎えられたことを感謝した。
 三十三歳という年齢は、さまざまな憂鬱をもたらすが、夜霧につつまれて食事をしたことだけは、楽しい思い出として残りそうである。
「連れてきていただいて、ありがとう」
 修子が改めて頭を下げると、遠野が白い包みをテーブルの上においた。
「約束のプレゼントだ、開けてごらん」
 修子は一瞬、遠野を見、それからこわれものにでも触れるようにゆっくりと開く。
 ピンクのリボンを解き、白い包装紙を除《の》けると半円形に盛り上ったケースが出てくる。横に小さな留金があり、それを開けると輪状に時計がおさめられている。
「うわあ、素敵……」
 思わずつぶやき、時計を手にとってみる。
 小さな円形の文字盤は淡いシルバーで、まわりの粒ダイヤが豪華さをそえている。さらにバンドについた黒いシルクサテンが品よく愛らしい。
「つけていいですか」
 遠野がうなずくのを見て、修子はブレスレットをはずし、かわりに腕に巻いてみた。
「ねえ、今日の服にぴったりでしょう」
 修子が時計をはめた腕をそびやかすと、遠野は満足そうにうなずいた。
「今日、修の服を見たときから似合うと思った」
「このサテンのついたのが欲しかったんです、どうしてわかったのですか」
「前に一緒に時計屋の前を通ったとき、立止ってそれを眺めていた」
 そんなことがあったような気もするが、それを忘れずに覚えていてくれたことが嬉しい。
「ありがとう、いつまでも大切にします」
「本当は、“三十三歳の誕生日に”と、彫り込もうかと思った」
「そんな意地悪はしないでください」
 修子は改めて幸せを全身に感じて、遠野とグラスを重ねた。
「実は、もう一つプレゼントがある」
「もう、これだけいただいたら充分です」
「いや、本当はこちらのほうがメインなのだ……」
 遠野はジャケットの内ポケットから、白い封筒のようなものを取り出した。
「これを、ずっと保管しておいてくれ」
「保管って?」
「大事なものだから、失《な》くさないで欲しい」
 修子が封筒を手にして開くと、なかから通帳のようなものと印鑑がでてきた。よく見ると表に「片桐修子」と修子の名前が記され、判も「片桐」と彫られている。
「なんでしょうか」
「預金通帳さ……」
 不思議に思いながら開くと数字が記され、よく見ると百万円になっている。
 修子はそれを再び数えなおしてから、慌てて押し返した。
「これは、わたしのものではありません」
「いや、修のものだよ。僕がこれまで修のために積み立ててきた」
「………」
「これからも、僕が毎月、この通帳に二十万ずつ入れてあげる。修はこれを銀行へ持っていって記帳してもらえばいい」
 修子には、遠野のいう意味がわからなかった。勝手に百万円、修子名義で積み立てて、さらにこれから毎月、二十万ずつ通帳に振り込んでくれるとはどういうことなのか。
「どうして、そんなことを……」
「とにかく、お金はあるにこしたことはない」
「でも、変です」
「変ではない。前から、修のためにお金を積み立ててやろうと思っていた」
「わたし、お金はあります。いまのお給料で充分やっていけます」
「これは、いまつかうために渡すわけではない。将来、ずっと先にね……」
 いわれて、修子はこれからのことを考えた。やがて三十五歳から四十歳になり、さらに五十歳になる。そのときのためということは、修子の老後のため、ということなのか。
 考えるうちに、修子の脳裏に要介の顔が浮かんでくる。
 年齢をとったとき、あの人と暮しているか、それとも一人でいるのか。いずれにしても、遠野と一緒にいることはなさそうである。
 そこまで考えて、修子はきっぱりと首を左右に振った。
「わたし、これをいただく理由はありません」
「どうして?」
「だって、わたしはわたしで、勝手な女ですから」
「べつに、そんなに深刻に考えることはない。これはただ僕の修への感謝の気持の一つにすぎない。まあ、強いていえば修が一人でいるための保険とでも思ってくれればいい」
「保険?」
「これでもあれば、少しは心強いだろう」
「それじゃ……」
 修子はいいかけてやめた。遠野は毎月、自分に二十万円ずつ振り込むことによって、一人の女の将来を縛ろうというのだろうか。
「とにかく、これはいただけません」
 修子は通帳を押し返しながら霧の中のロマンチックな夜から、急に現実に引き戻されたような気がして、夜霧に閉ざされた窓を見た。
 
 そのまま二人のあいだに預金通帳と印鑑がおかれ、それをはさんで一組の男女が黙りこくっている。知らない人が見たら、お金をめぐって二人が争っていると思うかもしれない。あるいは、一方が他方にお金を返している図と見えなくもない。
 やがて、遠野が意を決したようにいう。
「とにかく、とっておいてくれ、不満があるならあとできこう」
 だが修子はゆっくりと首を左右に振った。
 遠野からお金をもらうことが不満で逆らっているのではない。彼がこれまで自分のために百万円を積み立て、これからも月々二十万ずつ振り込んでくれるという申し出には充分感謝している。それだけ自分のことを心配していてくれていたのだと知っただけで嬉しい。
 だからといって、このまま素直に受け取るわけにはいかない。
 正直いって遠野から通帳を見せられたとき、修子は好意とはべつの、ある違和感を覚えた。うまく説明できないが、なにか違う、という感じを捨てきれない。
 たしかに修子は遠野を愛しているが、彼から金銭的な援助を受けたいと思ったことはない。食事をご馳走になったり、プレゼントを貰うのはともかく、月々いくらという形で、お金を受け取りたくない。それも愛の証しといえばいえなくはないが、それでは、過去にいくらもあった男と女の平凡な関係に堕ちてしまう。そうした古いつながりを断ち切ったところで、修子は遠野との愛を育てていきたいと思ってきた。
 それが現実に月々いくらという形で示されると、なにか自分がそれで束縛されたような気持になる。経済的にこれだけ世話になっているから、これだけ尽す、といった男女の関係にだけはなりたくない。その気持の底には、好きな人からお金はもらいたくないという、プライドがあることも否めない。遠野と際《つ》き合っているのは、ただ彼が好きだからで、お金とは無関係である。その気持を、この人はどうしてわかってくれないのだろうか。
「本当に、わたしのことなら心配いりません……」
 修子が通帳をおし返すと、遠野はシャンペンの残りを飲んでからいった。
「別に、そんなに深刻に考えなくてもいい。これはただ僕が勝手に渡すのだから修は黙って納めてくれればいいんだ」
 男には男の面子があり、いったん出したものを引き取るわけにはいかないのかもしれないが、修子にも修子の意地がある。
「わたし、お金を欲しいなどといったことはありません」
「そんなことは、わかっている」
「じゃあ、やめて下さい」
「余計なことは考えず、とにかくバッグにしまいなさい」
「いただけません」
 修子がきっぱりというと、遠野は呆れたというようにつぶやいた。
「強情なやつだ」
「………」
 ボーイがオードブルを並べはじめて、遠野はさすがにテーブルの上に通帳を置いたままでは、恰好が悪いと思ったようである。
 仕方なさそうに通帳と印鑑をジャケットの内ポケットに納めると、溜息をついた。
「どうしようもない……」
 修子は答えず窓を見た。
 遠野はどう思っているのか知らないが、自分はもともと不器用で、融通のきかない女である。遠野もそのことは充分承知のうえで、際き合ってきたはずである。それをいまさら、ものわかりがよくなれ、といわれても難しい。
 黙りこんでいる二人のあいだに、ソムリエが赤ワインのボトルを持ってくる。遠野が決めたのでよくわからないが、高価なものに違いない。ソムリエが注ぐと、遠野は試飲もせずにうなずいた。
「そのまま注いでくれ」
 自分が出した通帳をつっ返されたことで、遠野は少し不機嫌になっているのかもしれない。
 せっかくの夕食が、修子の拒否で気まずいものになりそうだが、修子としても自分の考えを曲げてまで、受け取るわけにはいかない。
 二人とも無言のままスープを飲む。
 外は相変らず霧が深いが、少し風がでてきたようである。庭の明りに照らされた一隅で、山裾から湖の方へ霧が流れていくのがわかる。
 会話のない食事をしながら、修子は要介のことを思った。
 もし彼と一緒に箱根に来ていたら、こんなことにならなかったかもしれない。もっとも、要介の経済力では湖が見えるデラックスな部屋に泊り、岡の上の素敵な洋館で食事をとるのは難しい。
 要介と一緒なら、せいぜい普通のツインの部屋に泊って、家族連れで混み合うダイニングルームで決ったコースの食事をとるのが精一杯であろう。遠野と一緒のときのような贅沢《ぜいたく》はできないが、かわりに通帳など出されて、気まずくなることはない。それどころか楽しい食事のあと、彼ならきっぱりといいだすに違いない。
「修子さん、僕と結婚して下さい」
 自惚《うぬぼ》れているわけではないが、要介はその言葉をもう何度もいいかけてやめている。これまでのデートでも、それに準ずる言葉は何度も口にしている。箱根に一緒に行くといえば、彼はますます勇気を出して申し込むに違いない。
 お金の入った通帳こそ出さないが、要介には、堂々と結婚を申し込む爽やかさがある。
「結婚して欲しい」という一言ほど、女にとって心地いい台詞《せりふ》はない。相手の男への好き嫌いは別として、その言葉はいつも女を夢の境地に誘いこむ魔力がある。
 考えようによっては、お金のかわりに若い男は、結婚という武器で女に迫ってくるともいえる。目先の百万や二百万のお金より、結婚という現実は何倍もの安定と憩《やす》らぎを与えてくれそうである。それは見方によっては一生の保証をかちとったといえなくもない。
 遠野も男なら通帳など出さず、「結婚して欲しい」といってみたらどうだろう。たとえいまは不可能としても、それに近い言葉をいってくれたほうが、どれほど嬉しいかしれない。
 霧を見ながらとりとめもなく考えていると、遠野が尋ねる。
「なにを、考えている?」
 修子は慌てて窓から顔を戻して微笑む。
「別に、なにも……」
「俺に文句があるのならいってくれ。はっきりいったほうがすっきりするだろう」
 瞬間、鉄板の上の肉に火がつき、夜の窓に炎が広がる。シェフが肉の上にブランディをかけて火をつけたのである。
 激しく肉の焼ける音がし、やがて火がしずまるのを待って遠野がいった。
「いま、誰か他に、好きな人でもいるのか?」
 修子は火の消えた窓を見ながらつぶやく。
「いないわ……」
 遠野は、素早く修子の心の中を察したのかもしれない。
 だがそこからさらに一步すすんで、追及してくるわけではなさそうである。きわどいところで黙るのは遠野の賢さなのか、それともずるさなのか、そのまま沈黙を続けていると、二人の前にステーキが運ばれてきた。
 まだ湯気がでて、肉がたぎっている。修子はワインを一口飲み、それから遠野が食べはじめるのを待って、ナイフとフォークを持った。
 
 ともに過ごす一夜のなかにも、さまざまな感情の行き交うときがある。
 食事のあと、二人は丘の上のレストランからホテルのバーに移ってさらに飲んだ。修子はブランディの水割りで遠野はスコッチだった。
 土曜日の夜でバーには二人連れが多かったが、遠野と修子はそれらを見ながら、会話はやはりはずまなかった。はっきりいって修子は遠野に甘えるきっかけを失い、遠野も修子に冗談をいうタイミングを失したようである。
 はたから見ると、ぎこちない二人連れに見えるかもしれないが、表立ってとくにいい争ったり、喧嘩をしているわけではない。ただお金の入っている通帳を遠野が渡そうとして、それを修子が拒否しただけである。不思議なことに、ブランディを飲み、軽く酔いがまわるうちに、修子はそれが些細なことに思えてきた。
 この気持は、もしかすると遠野のほうも、同じだったのかもしれない。互いに近寄りたいと思いながら、步みよるきっかけがないままずるずると時間を過ごしてしまった。こんなとき修子から「ご免なさい」と一言でもいえば、わだかまりは消えると思いながら、どういうわけか言葉が出ない。
 そのまま一時間ほどバーにいて、そのあと部屋へ戻ったが、普段の親しさに戻るきっかけをつかめぬまま遠野は先にベッドに横になってテレビを眺め、修子はバスルームに入った。
 湯につかるうちに気持が落着き、バスルームから出てきてみると遠野はすでに眠っていた。
 どうやら仲直りをするタイミングを失したようである。修子は少し後悔したが、いまさら起こすわけにもいかない。
 こんな二人のわだかまりが消えたのは、深夜に遠野が目覚めて修子を求めてきてからである。
 それは突然、なんの前触れもなく台風のように襲いかかってきた。
 もっとも遠野はときどき、そんな形で修子を求めてくるときがある。最近は修子もそれに慣れて、相手のなすに任せて受け入れる。
 だがいつもに較べて、遠野の求め方はせわしなく激しかった。
 せっかく箱根まできたのに、二人のあいだが離れてしまった。その心残りを吹き飛ばすかのように強引である。
 初め修子は逆らったが、途中からはその荒々しさに逆らう気力を失い、途中からはその激しさに半ば呆れ、感嘆してもいた。
 嵐が通りすぎたあと、修子の体はなお燃えながら波に揺られていた。そこまで体を揺さぶられると、もはや考えることも悩むことも面倒になる。
 遠野もさすがに疲れたらしい。
 そのまま、二人はぐっすりと寝込み、目覚めると八時だった。
 修子はベランダの外の鳥の声で眠りから醒めたが、遠野も朝の気配を察したらしい。
「何時かな」
「もう、八時ですよ」
 遠野が尋ねて修子が答える。その受け答えが自然にいつもの二人の会話に戻っていた。
「晴れているのかな」
「曇ってるようですけど、昨日よりは大分明るいわ」
 修子がパジャマを着てベランダのカーテンを開けると、窓に区切られた湖面がやわらかい朝の光りを浴びて輝いている。
「今日は、何時までに帰るんですか?」
「別に、決めていない」
 遠野はそこで、床のなかから手招きした。
「一寸……」
 いわれるままに修子が近付くと、いきなり遠野の腕が伸びてきて抱きしめられた。
「駄目よ、見られるわ……」
「平気だ、誰も見やしない」
 湖面には小舟が一隻浮いていたが、ベランダよりかなり低い位置にある。そのまま遠野は修子を上からおさえつけ、軽く接吻をして離した。
「昨日の罰だ……」
 乱れた襟元を直していると、遠野がつぶやく。
「なにも悪いことはしてないわ」
 乱暴な朝の挨拶だったが、これで二人の関係はいつもの親しさに戻ったようである。
 修子はバスルームで髪を洗い、ドライヤーをかけながらハミングした。
 鏡の前の洗面台の上には、昨夜、遠野からもらった黒いサテンのついた時計がおいてある。修子はそれを見ながら、改めて昨夜、遠野がさし出した預金通帳のことを思い出した。
 あれはやはり受け取ることはできなかったが、遠野の自分への思いがこもっていたことはたしかである。
 いまはまだ若く、仕事もできるから問題はないが、年齢《とし》をとったら、いずれお金は必要になる。そのときのために積み立てておこうというのは、年輩の遠野だから思いつくことのできるアイデアであり、優しさかもしれない。それを単に、お金で縛ろうとしているとか、お金で愛情をすり替えようとしていると決めつけるのは、少し酷かもしれない。
 むろんこれを渡すから、今後、他の男性と際《つ》き合ったり、結婚してはいけない、などといってはいない。実際、遠野はそんなことをいうほど無粋な男ではない。
 もし修子がどうしても結婚したいといえば、遠野は自由にしてくれるに違いない。多少は残念がり、口惜しがるかもしれないが、表立って邪魔だてするようなことはない。それだけの度量の広さと良識を備えている男性だから、いままで際き合ってきたともいえる。
 考えてみると、遠野は修子に対して形で現せる絆《きずな》をもちたかったのかもしれない。月々二十万は、遠野にとってもかなりの負担に違いないが、その負担を背負うことで愛を実感する。女のほうも、とくにお金を欲しくなくても、男が月々これだけのものを渡してくれるということで、彼の愛を確認することができる。
 はたして遠野がそこまで考えたか、よくわからないが、通帳を渡すことで自分と一体感をもちたいと思ったことだけはたしかかもしれない。
 考えるうちに、修子は自分の独りよがりが、つまらぬ誤解を生みだしたような気がしてきた。
 同じ断るにしても、もう少し優しく断ることはできなかったのか。あれではただ、一人で生きる女の身勝手さと我儘が顔を出しただけではないか。
 今度こそ謝ろうかと、ベッドのほうを振り向くと、遠野が起きだしたところだった。浴衣を着てスリッパをはくと、ベランダに近いソファに坐って修子を呼ぶ。
「おい、晴れてきそうだから、スカイラインを廻ってみようか」
「いますぐですか」
「ゆっくり、食事をしてからさ」
「賛成」
 修子は答えながら、素直になっている自分が不思議で可笑《おか》しかった。
 
 箱根からの帰り、芦ノ湖を見下すスカイラインを廻ったので、東京へ着くと午後五時を少し過ぎていた。
 朝方、晴れかけていた梅雨空は午後になって再び雲が広がり、蒸し暑さが戻っていた。
「少し、寄っていこうかな」
 用賀のインターを降りたところで遠野がつぶやいたが、修子は黙っていた。
「これから、なにか用事があるのか?」
「ありませんけど、今日は帰ったほうがいいわ」
 このまま遠野を部屋にいれると、またずるずると一緒に過ごして甘えたくなるかもしれない。
 だが遠野は土曜から家を空けたままである。自分から「少し……」といっているところをみると、一、二時間休んでいくつもりなのかもしれない。あまり時間もないのに立ち寄っていこうとするところが、遠野の優しさであり、困ったところでもある。
 用賀のインターから修子のマンションまでは十分もかからない。車がマンションの前に着いたところで、遠野がもう一度つぶやいた。
「寄らないほうが、いいかな」
 今度は、修子は笑顔でうなずいた。
「箱根、とても楽しかったわ、ありがとう」
 遠野はハンドルに片手をのせたまま別のことをいった。
「あれは、本当にいいのか?」
「あれって……」
 修子は通帳のことだと気がついたが、知らぬふりを装った。
「よかったら、おいていく」
「昨夜、いったとおりよ」
 遠野は車の前方を見たまま、溜息をついた。
「わかった、今夜はずっと部屋にいるのだろう」
「もちろん、どこにも出かけません」
「じゃあ、あとで電話をする」
「気をつけてね」
 遠野はようやく納得したようにハンドルを握ると、修子に軽く目配せした。
 そのまま車は動き出し、最初の信号を左へ曲って消えていく。
 いつものことだが、車を見送りながら、修子はある憩《やす》らぎと淋しさを覚える。むろん憩らぎは、一人になった解放感であり、淋しさは、遠野が自分から去っていった孤独である。
 もしかすると去っていった遠野も、同じような思いを味わっているのかもしれない。
 修子は気をとり直してマンションの入口のドアを押してなかへ入り、郵便受けを見た。数枚のダイレクトメールや広告のチラシとともに、荷物が届いている旨のメモ用紙が入っている。
 それを持って管理人室に行くと、五十半ばを過ぎた管理人が蘭の鉢植えを持ってきた。
「昨日の午後、届いたんですが……」
 修子は礼をいい、鉢を抱えてエレベーターにのってから、花に添えられたカードを開いてみた。
「お誕生日、おめでとうございます。岡部要介」
 花をみた瞬間、あるいはと思ったが、やはり要介からであった。
 前に一度、住所をきかれて教えたことがあったが、それを覚えていたようである。
 それにしても見事な蘭である。両腕をまわしてようやく抱えられる鉢に、十数個の胡蝶《こちよう》蘭が淡いピンクの花を咲かせている。
 管理人が昨日の午後に届いたというところをみると、修子が箱根に出かけた直後に違いない。そのまままる一日、管理人の部屋で放置されていたことになる。
「ご免なさいね」
 修子は花に謝りながら、要介にすまないことをしたような気がしてきた。
 こんな花が待っているのなら、もっと早く帰るべきだった。
 だが正直いって、誠実ではあるがいささか無粋な要介が、花を贈ってくれるとは思っていなかった。それに胡蝶蘭は優雅すぎて、猪突猛進タイプの彼にそぐわない。
 花を抱えて鍵を開けると、部屋はカーテンで閉じられたまま熱気がこもっている。
 独身の侘《わび》しさは、部屋に戻っても外出したときのまま変化のないことである。修子の会社には、その侘しさがいやで結婚したという女性もいる。
 だが今日は美しい花と一緒だから気がまぎれる。
 修子は蘭の鉢をいったん電話台のわきに置き、それからベランダの手前に置き換えてみた。
 花の位置が高いので、奥のほうが落着きそうである。
 修子はジーンズと白い綿シャツに着替えてからベランダを開き、部屋の空気を入れ換えた。
 相変らず梅雨空だが、新しい空気を呑みこんだ部屋は蘭の花を得て生き返ったようである。
 修子は手帖で要介の部屋の電話番号をたしかめてから、かけてみる。
 だが呼出音だけで、返事がない。
 日曜日だからどこかに出かけたのであろうか。
 ベランダの手前におかれた花を見ながら、修子は改めて要介のことを思った。
 この前から要介は、修子の誕生日には二人だけで食事をしたいといっていた。むろん遠野との約束があったので断ったが、それでも誕生日を忘れずに花を贈ってくれたのは嬉しい。しかもかなり高価そうな蘭の花である。
 いささか見栄っぱりの要介のやりそうなことだが、相当の出費であったに違いない。
「こんな無理をしなくてもよかったのに」
 花につぶやきながら見とれていると、電話が鳴った。
 要介からかと思って受話器をとると、遠野だった。
「どうしている?」
「どうって、コーヒーを飲んでいました……」
「やっぱり、修のところに寄ればよかった」
 遠野の声は少し元気がない。
「いま、お家でしょう」
「家だけど、帰ってみると誰もいなかった。みんな出かけたらしい」
 自嘲気味にか、遠野は軽く苦笑したようである。
「これから、飯でも食いに行こうか?」
 一度帰った久が原の自宅から、遠野はまた出てくるつもりらしい。
「夕食はまだだろう」
「………」
 せっかく帰ったのに、家族がいなくては淋しいだろうが、それは遠野の事情で、修子とは関係のないことである。
「日曜日だけど、寿司屋くらいならやっているだろう」
「でも、まだお腹はすいてないわ」
「じゃあ、これからそっちに行こうかな」
 修子は答えず花を見ていた。もしこの胡蝶蘭が若い男性から送られてきたと知ったら、遠野は嫉妬するのか、それとも無視するだろうか。
「いいだろう?」
 もう一度きかれて、修子は首を横に振った。
「駄目よ」
「どうして……」
「今日は、一人で休みたいの」
「冷たいな……」
 遠野が冗談めかしていったのに、修子は、「ご免なさい」といって受話器をおいた。
 
 暮れるとともにまた雨が降ってきたようである。といっても細く忍びやかな雨音はしない。
 修子は再びベランダを開けて掃除機をかけたあと、バスルームで湯を浴びた。ゆっくり温まってパジャマに着替えると、旅の疲れがでたのか少し眠くなった。そのまま小一時間ほど、ソファで仮眠したようである。
 目覚めたとき、つけたままのテレビは八時台のドラマをやっていた。
 修子はしばらくそれを見てから、空腹を覚えて流しに立った。
 昨日から出かけていたので、冷蔵庫には卵と鶏肉が少し残っているだけである。
 それで饂飩《うどん》をつくることにして湯を沸かし、ダシをとってから醤油と味醂《みりん》でツユをつくった。そのあと鶏肉を電子レンジで解凍していると、また電話のベルが鳴った。
 ガスをとめて出てみると、絵里だった。
「あなた、昨日からどこへ行っていたの?」
 いきなり問い詰められて、修子はなにか悪いことをしてきたような気になった。
「一寸、箱根のほうに……」
「彼氏と一緒でしょう、いいご身分ね」
 絵里はそういってから、急に甲高《かんだか》い声になった。
「ビッグニュースよ、眞佐子が結婚するのよ」
「本当……」
 修子は一瞬、冗談をいわれているような気がした。
「一カ月前にお見合いしたといったでしょう。その人と、ついに婚約したの」
 たしかに一カ月ほど前に、眞佐子は歯科医と見合いをしたはずだが、また例によって、見合いだけで終るのだと思っていた。
「でも、ずいぶん急ね。絵里はどうして知ったの?」
「昨日、彼女のほうから報告してきたのよ。それですぐあなたに報《しら》せようと思ったら、いないじゃない」
 大学の仲間のなかでは絵里が一番才女であったが、結婚に関する好奇心はみな同じである。
「じゃあ、やっぱり歯医者さんと」
「そうなの、この前、するといってたでしょう」
「でも一カ月で決めるなんて、余程気に入ったのね」
「それがよくわからないの。歯医者さんといっても相手は四十歳で、しかも子供がいるのよ」
「じゃあ、再婚じゃない」
「もちろん、前の奥さんは病気で亡くなったらしいけど、四歳の女の子が一人いるんだって」
 もともと、眞佐子は仲間三人のなかでは最も晚手《おくて》で、男性には臆病すぎるほど慎重であった。実家も青森の旧家で、保守的な家庭に育ってきたはずである。そんなお嬢さんが四十歳の子供連れの男性と結婚するとは意外である。
「どうして、そんなことになったの?」
「それがよくわからないんだけど、お父さんの代から品川のほうで開業していて、相当の資産家らしいわよ」
「じゃあ、お金が目当てってわけ」
「そんなわけでもないんだろうけど、眞佐子は東京に住みたがっていたでしょう……」
 たとえ東京に住めるといっても、それだけで子連れの中年男と結婚するとは思えない。
「それで、本人はなんていってるの?」
「やはり、再婚で子供がいることが気になってるみたいだけど、結構、楽しそうに喋るのよ」
「惚《のろ》けるの?」
「とにかく、相当、熱心に口説かれたみたいよ」
「そりゃ、眞佐子は独身だもん」
「“君を世界一の幸せな妻にする”っていわれたんですって」
「キザねえ」
 婚約や結婚の度に、女の友達が豹変するのを、修子はもう何度となく見ている。かつては仕事だけに熱中していた女性が、恋人ができた途端に仕事のことなぞ見向きもしなくなった例もある。また男嫌いのはずの堅い女性が、彼氏の惚け話ばかりするようになった例もある。
 いずれも一概に悪いとはいえないが、少しは毅然と筋を通してもらいたいと思うこともある。
 いま、絵里の話をきいたところでは、眞佐子も豹変しそうな予感がする。
「青森の、お母さん達は許したのかしら」
「見合いのうえでの婚約だから、もちろん承知なのでしょう」
 ゴールデンウイークに遊びにいったときに会った感じでは、眞佐子の両親は古風で律義な人のように見えた。
「眞佐子も焦ったのかなあ……」
「でも、われわれの年齢では、子連れの中年でも文句はいえないわ」
 絵里にいわれて、修子は改めて自分の年齢を考える。
 たしかに、三十三歳に対して四十歳では、さほど年齢が離れているわけではない。
「眞佐子も、そろそろこのあたりが年貢の納めどきと思ったんじゃない」
 絵里の説明はいささかストレートだが説得力がある。
 若いころは、ひたすら好きな人と一緒になることだけを夢みているが、現実の結婚はさまざまな妥協の結果のようである。それはいままで結婚してきた、いろいろな友達の例を見ればよくわかる。むろん愛があるにこしたことはないが、さほどなくても結婚生活は続けていけるものらしい。眞佐子もそういう女性と同じだと思いたくないが、多少の打算はあったのかもしれない。
「で、式はいつなの?」
「相手のほうは、いますぐでもいいっていうんですって。でもやはり秋ごろになるらしいわよ」
 修子は、眞佐子の嫁ぐ姿を想像したが、まだはっきりイメージとしてわいてこない。
「じゃあ、眞佐子に電話をしてみようかな」
「彼女、きっと、喜ぶわよ」
 絵里はそういってからいい直した。
「でも、放っといたほうがいいかもね。いま電話をすると、惚《のろ》けられた挙句に、早く結婚しなさいなんて、説教されるかもしれないわよ」
 電子レンジが鳴ったので、修子はあとでまた電話することにして受話器をおいた。
 そのままキッチンに駆けていくと、レンジのなかの鶏肉が解けている。
 修子はそれを取り出して俎板《まないた》の上で刻み、改めて湯を沸かした。饂飩のツユはすでにできているので、あとは麺を熱湯にとおせばいいだけである。
 一段落したところで修子は手を拭き、ベランダのほうを振り返った。
 かすかに湯が沸きたつ音がする部屋のなかで、胡蝶蘭だけが場違いのように咲き誇っている。
 その気品のある花の姿を見ながら、修子は自分一人だけ取り残されていくような淋しさを覚えた。
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