敬之進の家を出て帰つて行く道すがら、すくなくも丑松はお志保の為に尽したことを考へて、自分で自分を慰めた。蓮華寺の山門に近(ちかづ)いた頃は、灰色の雲が低く垂下つて来て、復(ま)た雪になるらしい空模様であつた。蒼然(さうぜん)とした暮色は、たゞさへ暗い丑松の心に、一層の寂しさ味気なさを添へる。僅かに天の一方にあたつて、遠く深く紅(くれなゐ)を流したやうなは、沈んで行く夕日の反射したのであらう。
宵の勤行(おつとめ)の鉦(かね)の音は一種異様な響を丑松の耳に伝へるやうに成つた。それは最早(もう)世離れた精舎(しやうじや)の声のやうにも聞えなかつた。今は梵音(ぼんおん)の難有味(ありがたさ)も消えて、唯同じ人間世界の情慾の声、といふ感想(かんじ)しか耳の底に残らない。丑松は彼の敬之進の物語を思ひ浮べた。住職を卑しむ心は、卑しむといふよりは怖れる心が、胸を衝(つ)いて湧上つて来る。しかしお志保は其程香(か)のある花だ、其程人を(ひきつ)ける女らしいところが有るのだ、と斯う一方から考へて見て、いよ/\其人を憐むといふ心地(こゝろもち)に成つたのである。
蓮華寺の内部(なか)の光景(ありさま)――今は丑松も明に其真相を読むことが出来た。成程(なるほど)、左様言はれて見ると、それとない物の端(はし)にも可傷(いたま)しい事実は顕れて居る。左様(さう)言はれて見ると、始めて丑松が斯の寺へ引越して来た時のやうな家庭の温味(あたゝかさ)は何時の間にか無くなつて了つた。
二階へ通ふ廊下のところで、丑松はお志保に逢(あ)つた。蒼(あを)ざめて死んだやうな女の顔付と、悲哀(かなしみ)の溢(あふ)れた黒眸(くろひとみ)とは――たとひ黄昏時(たそがれどき)の仄(ほの)かな光のなかにも――直に丑松の眼に映る。お志保も亦(ま)た不思議さうに丑松の顔を眺めて、丁度喪心(さうしん)した人のやうな男の様子を注意して見るらしい。二人は眼と眼を見交したばかりで、黙つて会釈(ゑしやく)して別れたのである。
自分の部屋へ入つて見ると、最早そこいらは薄暗かつた。しかし丑松は洋燈(ランプ)を点けようとも為なかつた。長いこと茫然として、独りで暗い部屋の内に座(すわ)つて居た。