『瀬川さん、御勉強ですか。』
と声を掛けて、奥様が入つて来たのは、それから二時間ばかり経(た)つてのこと。丑松の机の上には、日々(にち/\)の思想(かんがへ)を記入(かきい)れる仮綴の教案簿なぞが置いてある。黄ばんだ洋燈(ランプ)の光は夜の空気を寂(さみ)しさうに照して、思ひ沈んで居る丑松の影を古い壁の方へ投げた。煙草(たばこ)のけむりも薄く籠(こも)つて、斯(こ)の部屋の内を朦朧(もうろう)と見せたのである。
『何卒(どうぞ)私に手紙を一本書いて下さいませんか――済(す)みませんが。』
と奥様は、用意して来た巻紙状袋を取出し乍ら、丑松の返事を待つて居る。其様子が何となく普通(たゞ)では無い、と丑松も看(み)て取つて、
『手紙を?』と問ひ返して見た。
『長野の寺院(てら)に居る妹のところへ遣(や)りたいのですがね、』と奥様は少許(すこし)言淀(いひよど)んで、『実は自分で書かうと思ひまして、書きかけては見たんです。奈何(どう)も私共の手紙は、唯長くばかり成つて、肝心(かんじん)の思ふことが書けないものですから。寧(いつ)そこりや貴方(あなた)に御願ひ申して、手短く書いて頂きたいと思ひまして――どうして女の手紙といふものは斯う用が達(もと)らないのでせう。まあ、私は何枚書き損つたか知れないんですよ――いえ、なに、其様(そんな)に煩(むづか)しい手紙でも有ません。唯解るやうに書いて頂きさへすれば好いのですから。』
『書きませう。』と丑松は簡短に引受けた。
斯答(このこたへ)に力を得て、奥様は手紙の意味を丑松に話した。一身上のことに就いて相談したい――是(この)手紙着次第(ちやくしだい)、是非々々々々出掛けて来るやうに、と書いて呉れと頼んだ。蟹沢から飯山迄は便船も発(た)つ、もし舟が嫌なら、途中迄車に乗つて、それから雪橇に乗替へて来るやうに、と書いて呉れと頼んだ。今度といふ今度こそは絶念(あきら)めた、自分はもう離縁する考へで居る、と書いて呉れと頼んだ。
『他の人とは違つて、貴方ですから、私も斯様(こん)なことを御願ひするんです。』と言ふ奥様の眼は涙ぐんで来たのである。『訳を御話しませんから、不思議だと思つて下さるかも知れませんが――』
『いや。』と丑松は対手(あひて)の言葉を遮(さへぎ)つた。『私も薄々聞きました――実は、あの風間さんから。』
『ホウ、左様(さう)ですか。敬之進さんから御聞きでしたか。』と言つて、奥様は考深い目付をした。
『尤(もつと)も、左様委敷(くはし)い事は私も知らないんですけれど。』
『あんまり馬鹿々々しいことで、貴方なぞに御話するのも面目ない。』と奥様は深い溜息を吐(つ)き乍ら言つた。『噫(あゝ)、吾寺(うち)の和尚さんも彼年齢(あのとし)に成つて、未(ま)だ今度のやうなことが有るといふは、全く病気なんですよ。病気ででも無くて、奈何して其様な心地(こゝろもち)に成るもんですか。まあ、瀬川さん、左様ぢや有ませんか。和尚さんもね、彼病気さへ無ければ、実に気分の優しい、好い人物(ひと)なんです――申分の無い人物なんです――いえ、私は今だつても和尚さんを信じて居るんですよ。』