こゝは学校では無いか。奈何(どう)して斯様(こん)なところへお志保が尋ねて来たらう。と丑松は不思議に考へないでもなかつた。しかし其疑惑(うたがひ)は直に釈(と)けた。お志保は何か言ひたいことが有つて、わざ/\自分のところへ逢ひに来たのだ、と斯う気が着いた。あの夢見るやうな、柔嫩(やはらか)な眼――其を眺めると、お志保が言はうと思ふことはあり/\と読まれる。何故、父や弟にばかり親切にして、自分には左様(さう)疎々(よそ/\)しいのであらう。何故、同じ屋根の下に住む程の心やすだては有乍ら、優しい言葉の一つも懸けて呉れないのであらう。何故、其口唇(くちびる)は言ひたいことも言はないで、堅く閉(と)ぢ塞(ふさが)つて、恐怖(おそれ)と苦痛(くるしみ)とで慄へて居るのであらう。
斯ういふ楽しい問は、とは言へ、長く継(つゞ)かなかつた。何時の間にか文平が入つて来て、用事ありげにお志保を促(うなが)した。終(しまひ)には羞(はづか)しがるお志保の手を執(と)つて、無理やりに引立てゝ行かうとする。
『勝野君、まあ待ち給へ。左様(さう)君のやうに無理なことを為(し)なくツても好からう。』
と言つて、丑松は制止(おしとゞ)めるやうにした。其時、文平も丑松の方を振返つて見た。二人の目は電光(いなづま)のやうに出逢(であ)つた。
『お志保さん、貴方(あなた)に好事(いゝこと)を教へてあげる。』
と文平は女の耳の側へ口を寄せて、丑松が隠蔽(かく)して居る其恐しい秘密を私語(さゝや)いて聞かせるやうな態度を示した。
『あツ、其様(そん)なことを聞かせて奈何(どう)する。』
と丑松は周章(あわ)てゝ取縋(とりすが)らうとして――不図(ふと)、眼が覚めたのである。
夢であつた。斯う我に帰ると同時に、苦痛(くるしみ)は身を離れた。しかし夢の裡(なか)の印象は尚残つて、覚めた後までも恐怖(おそれ)の心が退かない。室内を眺め廻すと、お志保も居なければ、文平も居なかつた。丁度そこへ風呂敷包を擁(かゝ)へ乍ら、戸を開けて入つて来たのは銀之助であつた。
『や、どうも大変遅くなつた。瀬川君、まだ君は起きて居たのかい――まあ、今夜は寝て話さう。』
斯う声を掛ける。軈(やが)て銀之助はがた/\靴の音をさせ乍(なが)ら、洋服の上衣を脱いで折釘へ懸けるやら、襟(カラ)を取つて机の上に置くやら、または無造作にズボン釣を外すやらして、『あゝ、其内に御別れだ。』と投げるやうに言つた。八畳ばかり畳の敷いてあるは、克く二人の友達が枕を並べて、当番の夜を語り明したところ。今は銀之助も名残惜(なごりを)しいやうな気に成つて、着た儘の襯衣(シャツ)とズボン下とを寝衣(ねまき)がはりに、宿直の蒲団の中へ笑ひ乍ら潜り込んだ。
『斯(か)うして君と是部屋に寝るのも、最早(もう)今夜限(ぎ)りだ。』と銀之助は思出したやうに嘆息した。『僕に取つては是(これ)が最終の宿直だ。』
『左様(さう)かなあ、最早御別れかなあ。』と丑松も枕に就き乍ら言つた。
『何となく斯(か)う今夜は師範校の寄宿舎にでも居るやうな気がする。妙に僕は昔を懐出(おもひだ)した――ホラ、君と一緒に勉強した彼の時代のことなぞを。噫(あゝ)、昔の友達は皆な奈何して居るかなあ。』と言つて、銀之助はすこし気を変へて、『其は左様と、瀬川君、此頃(こなひだ)から僕は君に聞いて見たいと思ふことが有るんだが――』
『僕に?』
『まあ、君のやうに左様黙つて居るといふのも損な性分だ。どうも君の様子を見るのに、何か非常に苦しい事が有つて、独りで考へて独りで煩悶(はんもん)して居る、としか思はれない。そりやあもう君が言はなくたつて知れるよ。実際、僕は君の為に心配して居るんだからね。だからさ、其様(そんな)に苦しいことが有るものなら、少許(すこし)打開けて話したらば奈何(どう)だい。随分、友達として、力に成るといふことも有らうぢやないか。』