この大雪を衝(つ)いて、市村弁護士と蓮太郎の二人が飯山へ乗込んで来る、といふ噂(うはさ)は学校に居る丑松の耳にまで入つた。高柳一味の党派は、斯(こ)の風説に驚かされて、今更のやうに防禦(ばうぎよ)を始めたとやら。有権者の訪問、推薦状の配付、さては秘密の勧誘なぞが頻(しきり)に行はれる。壮士の一群(ひとむれ)は高柳派の運動を助ける為に、既に町へ入込んだともいふ。選挙の上の争闘(あらそひ)は次第に近いて来たのである。
其日は宿直の当番として、丑松銀之助の二人が学校に居残ることに成つた。尤(もつと)も銀之助は拠(よんどころ)ない用事が有ると言つて出て行つて、日暮になつても未だ帰つて来なかつたので、日誌と鍵とは丑松が預つて置いた。丑松は絶えず不安の状態(ありさま)――暇さへあれば宿直室の畳の上に倒れて、独りで考へたり悶(もだ)えたりしたのである。冬の一日(ひとひ)は斯ういふ苦しい心づかひのうちに過ぎた。入相(いりあひ)を告げる蓮華寺の鐘の音が宿直室の玻璃窓(ガラスまど)に響いて聞える頃は、殊(こと)に烈しい胸騒ぎを覚えて、何となくお志保の身の上も案じられる。もし奥様の決心がお志保の方に解りでもしたら――あるひは、最早(もう)解つて居るのかも知れない――左様なると、娘の身として其を黙つて視て居ることが出来ようか。と言つて、奈何(どう)して彼の継母のところなぞへ帰つて行かれよう。
『あゝ、お志保さんは死ぬかも知れない。』
と不図(ふと)斯ういふことを想ひ着いた時は、言ふに言はれぬ哀傷(かなしみ)が身を襲(おそ)ふやうに感ぜられた。
待つても、待つても、銀之助は帰つて来なかつた。長い間丑松は机に倚凭(よりかゝ)つて、洋燈(ランプ)の下(もと)にお志保のことを思浮べて居た。斯うして種々(さま/″\)の想像に耽(ふけ)り乍ら、悄然(しよんぼり)と五分心の火を熟視(みつ)めて居るうちに、何時の間にか疲労(つかれ)が出た。丑松は机に倚凭つた儘(まゝ)、思はず知らずそこへ寝(ね)て了(しま)つたのである。
其時、お志保が入つて来た。