『無論市村さんは当選に成りませう。』と応接室では白髯(しろひげ)の町会議員が世慣(よな)れた調子で言出した。『人気といふ奴(やつ)は可畏(おそろ)しいものです。高柳君が彼様(あゝ)いふことになると、最早誰も振向いて見るものが有ません。多少掴(つか)ませられたやうな連中まで、ずつと市村さんの方へ傾(かし)いで了ひました。』
『是(これ)といふのも、あの猪子といふ人の死んだ御蔭なんです――余程市村さんは御礼を言つても可(いゝ)。』と金縁眼鏡の議員が力を入れた。
『して見ると新平民も馬鹿になりませんかね。』と郡視学は胸を突出して笑つた。
『なりませんとも。』と白髯の議員も笑つて、『どうして、彼丈(あれだけ)の決心をするといふのは容易ぢや無い。しかし猪子のやうな人物(ひと)は特別だ。』
『左様(さう)さ――彼(あれ)は彼、是(これ)は是さ。』
と顔に薄痘痕(うすあばた)のある商人の出らしい議員が言出した時は、其処に居並ぶ人々は皆笑つた。『彼は彼、是は是』と言つた丈(だけ)で、其意味はもう悉皆(すつかり)通じたのである。
『はゝゝゝゝ。只今(たゞいま)御話の出ました「是」の方の御相談ですが、』と金縁眼鏡の議員は巻煙草を燻(ふか)し乍ら、『郡視学さんにも一つ御心配を願ひまして、あまり町の方でやかましく成りません内に――左様、御転任に成るといふものか、乃至(ないし)は御休職を願ふといふものか、何とかそこのところを考へて頂きたいもので。』
『はい。』と郡視学は額へ手を当てた。
『実に瀬川先生には御気の毒ですが、是も拠(よんどころ)ない。』と白髯の議員は嘆息した。『御承知の通りな土地柄で、兎角(とかく)左様いふことを嫌ひまして――彼先生は実はこれ/\だと生徒の父兄に知れ渡つて御覧なさい、必定(きつと)、子供は学校へ出さないなんて言出します。そりやあもう、眼に見えて居ます。現に、町会議員の中にも、恐しく苦情を持出した人がある。一体学務委員が気が利かないなんて、私共に喰つて懸るといふ仕末ですから。』
『まあ、私共始め、左様(さう)いふことを伺つて見ますと、あまり好い心地(こゝろもち)は致しませんからなあ。』と薄痘痕(うすあばた)の議員が笑ひ乍ら言葉を添へる。
『しかし、それでは学校に取りまして非常に残念なことです。』と校長は改(あらたま)つて、『瀬川君が好くやつて下さることは、定めし皆さんも御聞きでしたらう――私もまあ片腕程に頼みに思つて居るやうな訳で。学才は有ますし、人物は堅実(たしか)ですし、それに生徒の評判(うけ)は良し、若手の教育者としては得難い人だらうと思ふんです。素性(うまれ)が卑賤(いや)しいからと言つて、彼様(あゝ)いふ人を捨てるといふことは――実際、聞えません。何卒(どうか)まあ皆さんの御尽力で、成らうことなら引留めるやうにして頂きたいのですが。』
『いや。』と金縁眼鏡の議員は校長の言葉を遮つた。『御尤(ごもつとも)です。只今のやうな校長先生の御意見を伺つて見ますと、私共が斯様(こん)な御相談に参るといふことからして、恥入る次第です。成程(なるほど)、学問の上には階級の差別も御座(ござい)ますまい。そこがそれ、迷信の深い土地柄で。左様いふ美しい思想(かんがへ)を持つた人は鮮少(すくな)いものですから――』
『どうも未(ま)だそこまでは開けませんのですな。』と薄痘痕の議員が言つた。
『ナニ、それも、猪子先生のやうに飛抜けて了へば、また人が許しもするんですよ。』と白髯の議員は引取つて、『其証拠には、宿屋でも平気で泊めますし、寺院(てら)でも本堂を貸しますし、演説を為(す)るといへば人が聴きにも出掛けます。彼(あの)先生のは可厭(いや)に隠蔽(かく)さんから可(いゝ)。最初からもう名乗つてかゝるといふ遣方ですから、左様(さう)なると人情は妙なもので、むしろ気の毒だといふ心地(こゝろもち)に成る。ところが、瀬川先生や高柳君の細君のやうに、其を隠蔽(かく)さう/\とすると、余計に世間の方では厳(やかま)しく言出して来るんです。』
『大きに――』と郡視学は同意を表した。
『どうでせう、御転任といふやうなことにでも願つたら。』と金縁眼鏡の議員は人々の顔を眺め廻した。
『転任ですか。』と郡視学は仔細らしく、『兎角(とかく)条件附の転任は巧くいきませんよ。それに、斯(か)ういふことが世間へ知れた以上は、何処(どこ)の学校だつても嫌がりますさ――先づ休職といふものでせう。』
『奈何(どう)なりとも、そこは貴方の御意見通りに。』と白髯の議員は手を擦(も)み乍ら言つた。『町会議員の中には、「怪しからん、直に追出して了へ」なんて、其様な暴論を吐くやうな手合も有るといふ場合ですから――何卒(どうか)まあ、何分宜敷(よろしい)やうに、御取計ひを。』